おまけSS 【前日譚/引越しの日】

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おまけSS 【前日譚/引越しの日】

「陸君、ちょっとこっちを手伝ってくれる?」    小学生だった陸がおばさん(・・・・)に教わった生活のノウハウの中で、好きだな(・・・・)と思ったのは『家の中に風を通すときには、一つの窓だけを開けてもあまり効果が無いの。できれば向かい側の窓。それが難しいようだったら幾つかの窓を開けて、それらを隔てるドアを開けておくといいのよ』という、今から思えば至極当たり前なことだった。  忙しい職に就いている圭は、当然そんなことを陸に教える時間は皆無だったし、本来ならば生活を営む延長線上で自然に教え込めるはずの肉親は、既に鬼籍に入っている。  従って、おばさん(・・・・)が『当たり前』の事としてさらりと教えてくれたあらゆる事柄は、陸の心に深く刻み込まれていた。  今日もおばさん(・・・・)がやってくる前に、陸は家中の窓を全開にしていた――窓と窓とを通り抜けて行く、陽射しに程好く温められた春の風を受けながら、彼女はいつも通り(・・・・・)、きびきびと手を動かしている。 「陸君、大きなものは圭さんにお任せして、私達は細々としたものを片付けてしまいましょう。できれば昼間の暖かいうちに、お掃除も済ませたいしね?」  「一緒に、頑張りましょうね」やっぱり、いつも通り(・・・・・)の優しい笑顔と言葉を陸に向けて来る……。  そんなおばさん(・・・・)の、いつもと変わらない(・・・・・・・・・)態度に、陸は少し複雑な思いを抱いていた。 「陸君が好きな一駅先のお蕎麦屋さんから、手打ちそばの麺を分けてもらってきたのよ。お昼に茹でて一緒に『引っ越し蕎麦』を食べましょう」 「はい――」  陸は泣きそうになっていた。  シアトルに行きたくないわけじゃないし、日本に未練があるわけでもない。  でも――明日から会えなくなることが分かっているのに、おばさん(・・・・)の言動が『いつも通り』だから。 「あそこの蕎麦、旨いんですよね! 最後の最後まで、おばさん(・・・・)にはお世話になりっぱなしだなぁ。本当に、有難うございます」  陸の変化にいち早く気付いた圭が、おばさん(・・・・)との会話を引き継ぎながら陸の表情をさりげなく覗き込む。 「なんだ? 陸は食欲ねえのか? だったら、お前の分も――」 「圭さん!」  軽く(たしな)められた圭が首を(すく)めて「ああ、そうですね。はいはい――」と返す。 「私は陸君の好物だから買ってきたんですよ。圭さんの大好物のヒレカツは、家で揚げてきましたから、後でかつ丼にして差し上げます。さあ、もう少し作業を頑張りましょう!」  おばさん(・・・・)には、陸の気持ちなど全てお見通しだ。  既に被雇用者としての契約を昨日付けで解除したにもかかわらず、早朝からやって来て、淡々と作業を手伝っている。  大仰に別れを惜しむのではなく、日常の延長線上で当たり前のように片付けを手伝い、明日、きちんと出立させようという心遣い――それは圭親子にとって必要なことで、陸の心を慮った上での行動だ。  なにより、仕事とはいえ樫本家に家政婦として仕えていた長い歳月は、彼女の中に彼らへの情を育むには有り余る時間となってしまっていた。    偉そうな大義名分を心の中で振り翳している彼女だったが、とどのつまり、それら一連の行動は、彼女自身が彼らと離れ難い気持ちをしっかりと受け入れ、手放す為の重要な儀式でもあった。
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