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飛び込みの演奏も終わり、耳が痛い程の拍手を浴びるだけ浴びて恋人と共に店を出たところで、バーのマスターである町田が慌てた様子で飛び出してきた。
「助かったよ陽。せっかくのデートなのに悪いね。ツアーから帰って来たばかりだと言うのに、本当に申し訳ない事をした」
そう言いながら封筒を手渡そうとする初老の男の腕を優しく制しながら、陽は困ったように微笑んだ。
「いえ、今日は起きてからずっと機嫌が悪かったのでそんな気はしていました。聖月が御迷惑をお掛けしている罪滅ぼしです」
すまないねえ、と何度も零しながら、町田は痩せた瞳を細めた。
「腕は良いのにねえ、あれではとても。嶋田さんがいれば、少しはマシなんだけど」
「……そうですね。では、僕はこれで」
軽く頭を下げ踵を返すと、町田は背中越しにありがとう、と何度も繰り返していた。
高いヒールを履く紗綾を気遣いながら国道まで出て、陽はすぐさまタクシーを探した。
「今日も帰るの?」
紗綾にそう問われ、思わず申し訳なさに柳眉が垂れ下がる。
「ああ、すまない。埋め合わせは必ず」
「気にしないで」
大人の余裕か、五歳年上の恋人は美しく微笑んだ。か細い身体を抱き締めて、陽はちいさな額に口付けた。
ジャズシンガーである紗綾は、美しく、気高く、そして誰よりも陽を想ってくれる素晴らしいひとだ。仕事のパートナーとしても相性が良く、二人はつい昨日全国ツアーから帰ったばかり。客の入りもかなり良く、公私共に順調である。何処を探しても二度とは見付からない程、紗綾は陽にとっては理想の恋人だった。
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