第一章

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 私は寒さというものを実感したことがない、生まれてから32歳になるまでずっと。  父の別荘はスキー場としても有名な雫石(しずくいし)にも有って冬場は幼い頃にはスキーを楽しみ学生時代はスノボで遊ぶという経験をしたものの、身体を動かしていれば寒さなどは忘れてしまうし、別荘に帰れば暖炉がオレンジ色の火で迎えてくれていた、別荘番によって。  東京の実家も――良く北海道出身の学友が「東京は寒くて堪らない」と言っていたが――大理石の床の下には暖房が通っていた。移動は運転手つきの車が生まれた時から有ったので、外出の際には専らそれを使っていた。  それが当たり前の生活と信じていただけに、北風というのはむしろ気分を研ぎ澄まさせてくれるモノで、気分転換にはちょうど良いという程度の認識だった。 「親族経営ながら一部上場企業の御曹司(おんぞうし)だなんて恵まれ過ぎだよな、安田総一郎君は」  などと、大学時代の同級生に言われたことは数知れずだった。幼稚舎と呼ばれる小学校から高校まではエスカレーター式の私立に通っていたため、周りも同じような境遇の友達しか居なかったが、大学まで付いている母校ではなくて本郷にある国立大学に入学したのは、父の屋敷の図書室でたまたま手に取った哲学書に感銘を受けて(この教授の薫陶を受けたい)と心の底から思ったからだった。  その大学も雑誌などでは「年収2千万以上の家庭の子弟が圧倒的に多い」などと父の愛読するビジネス誌に書かれていたが、哲学科はそうでもなくていわゆる「庶民」と呼ばれる学生が多数存在した。  しかし、そういう学友でも、こと哲学となると話しは尽きることもなかったし、私の家が「特別」なことは寛容にも許されていた。雫石や軽井沢の別荘が合宿所として快く使って貰ったのが功を奏したのかもしれないが。  就職活動は父の華麗な人脈のせいであっさり決まり――しかし父との約束で五年間だけはその会社で勤務して経験を積んだ上で父の会社に転職するということだったので、いわゆる「お客様待遇」としての勤務だったと今になってみれば良く分かった。  何しろ新入社員なのに個室を貰え、専属の秘書まで付いているという待遇だった。父は社会勉強のためにその会社で鍛えて貰うという腹積もりだったと思う。  今となってはその「高待遇」が恨めしい。
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