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ウォークマンのヘッドフォンから、流れる君の声。
低い声。雨垂れのように、ぽつぽつと。
メロディーラインをゆっくり撫でるように歌う。
君は自分の声が嫌いだと言うけれど。
身体全部、心全部、包み込んでしまいそうな声だと
、僕はそう思う。
カラオケでこっそり君の歌を録音した事、君は知らないだろう?
誰もいない部屋で、君の歌声に浸る。
そうすれば、普段は全くの不眠症の僕も、すっかり眠りに落ちてしまうんだ。
僕の知らなかった感情を全て教えてくれたのは君。
優しさ、嬉しさ、有り難さ、照れくささ、そして温もり。
君はよく、僕の頭をその大きな手で掻き回した。
年齢だってさして変わらないのに、君はいつも僕の庇護者だった。
家でどんな辛いことがあったって、忘れられた。君といる時は。殴られても、蹴られても、その傷を君がそっと撫でてくれれば、痛いのなんて飛んでいってしまった。
僕に兄弟はいないけど、いたならこんな感じだったろうか?
お兄ちゃん。
そういう風に呼んでみるのはなんだか照れる。
覚えているかい?
僕が帰りたくないと言った時、じゃあ一緒に家出しよう、と密やかに囁いた君は、電車旅行に一晩中付き合ってくれた。
電車を乗り継いで、行けるところまでいった。
たどり着いたのは海だった。
朝焼けの、海だった。
海岸でふたりで朝日を見ていると、なんだかとても寂しくて、懐かしい気持ちになったんだ。
全く動かなくなった僕の首に、マフラーを巻いて。
『風邪引くぞ、帰ろう』
君はつれなくそんな風に言った。
一緒に海に飛び込んで、死んでしまいたい、そう願ったのが、バレたんだろうか。
一緒に鈍行を乗り継いで帰った。
ゆっくりゆっくり、時間が流れた。
あれからどのくらい経つんだろう。
二年くらいか。
僕は知らなかったんだ。
君が不治の病にかかっていたこと。
出会った頃にはもう、あと何年も生きられない身体だったこと。
耳元、君の雨粒の声が揺れている。
あの優しさも。
温かさも。
大きな掌も。
くしゃっと笑う笑顔も。
もう、ない。
君はここに居ない。
この世界に居ない。
僕の隣に居ない。
この、歌声だけが、僕の手元に残った。
君の温もりを感じさせる、この歌声だけが。
ありがとう。
苦しいよ。
君の声が聴きたい。
神様お願い、もう一度だけ。
あの、優しい、温かい、声を聴かせて。
声を、聴かせて。
END
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