ありがとう。

3/7
5人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ
 別れの挨拶ができるのと、できないのではどちらが残酷だろうか。  70を迎えた頃から妻の食は細り、非常にゆっくりではあったが徐々に痩せていくのを見て、私は何度と無く最後の瞬間を想像してきた。想像の中の私は、病床の妻の手を握り穏やかに眠りに落ちゆく妻に感謝の言葉を送っていた。だが現実はそう、うまく行かなかった。  妻が息を引き取る前の夜、いつもと大きく変わった様子はなかった。ただその日の就寝前に妻は私にこう言った。  『いつもありがとうね』と。  不意のあらたまった言葉に動揺した私は、同じく感謝の言葉を返そうとして寸前で踏みとどまった。それはまるで最後の瞬間を迎えるきっかけになってしまいそうだったからだ。 とっさに私は「ああ」とだけ返事をして絹江の手を握り、 「おやすみ、また明日。」 と伝えた。 絹江はコクリとうなずき眠りについた。妻が寝息を立てるのを見守った後、私も変わらぬ明日の朝を思い描いて目を閉じた。  翌朝、妻が目を開けることはなかった。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!