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その言葉がわたしを擽る。
「逃げたって、大丈夫なんですか?」
高山さんは心配ないからと言い、わたしに答えを迫る。
「どうする? 行く? 行かない?」
そう言う顔は、わたしが断らないと自信に溢れているようだった。
「じゃあ、一件だけ」
実は誘われた時点で決まっていた答えを、わたしは口にした。
照明を落とした、白を基調とした店内。流れている音楽はマーヴィンゲイだと、白いジャケットに黒の蝶ネクタイをした初老のマスターが教えてくれた。マホガニー色のカウンターにはわたし達だけ。
高山さんはマスターお任せのウィスキーをロックで。わたしにはノンアルコールカクテルを。
「酔っぱらわせてどうこうしようと思ってないから」
そう言って顔の赤いわたしのために、マスターにオーダーした。ほんのり甘くてグレープフルーツのすっきりした酸味が心地良い。
その時、いきなり放られた。
「ねえ、ちゃんと息継ぎしてる?」
わたしは意味が分からず高山さんの顔を見る。
「クジラって最後は息継ぎできなくて、溺れ死ぬんだって」
諭すような口振りだ。
「クジラだって息継ぎ必要なのに、人間なんてなおさら。たまに温かい空気吸わないと死んじゃうよ。潜ってばっかじゃ寒いでしょ?」
その言葉に、心の底にたまった澱が、急に目の奥に込み上げてきて、 堰を切ったように溢れ出すのを感じた。
気がついたら、涙が頬を伝い、手に持つカクテルグラスに滴り落ちていた。
「俺が見てて、思ったこと。あまりにも寒そうだったから。まるで深海にいるみたいだ」
わたしは、息をすることを忘れていたのかな。久しぶりに温かい空気が肺を満たしたようだ。
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