触れられた幸せ

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それは、目的もないまま携帯をいじっているときや、キッチンで玉ねぎを切っているときに、ふと脳裏に漂う記憶の1つである。 その記憶があの頃のあたしのすべてなのか、そうでないのかはよく分からない。 ただ、あの出来事はあたしの人生の大きな分岐点だった。 かつて、18回目の春を迎えるあたしには恋人がいた。 ―東谷翔(アズマヤショウ)― 綺麗な名前の裏に、男らしい野心と、どこか亭主関白を彷彿させる強引さを持ち合わせた彼には、彼女に甘い言葉を囁く余裕はなかった。 恋人たちが吐露する「好き」も「愛してる」の言葉を発することはほとんどなかった。 でも、あたしと彼の間には確かな幸せがあった。 例えば、何も考えず、ただ心の底から笑いあって、「今日の夕飯なんだろう」と、彼の運転する自転車の後ろで、考えたり。 「唐揚げ食いてぇなぁ」と、勝手に自分が食べたいものを上げられたり。 そんな彼の背中をベシベシと叩くあたしを、彼は見もせずに笑うのだ。 短く、儚い青春の中で、泣いて、笑って、確かな時間を積み重ねていた。 彼と積み上げた過去の景色は、いつだって出し入れ可能な押し入れの中だ。 「あの時の映画さ」の一言で、彼は「ああ、あれな」と返事をする。 たった一言で通じ合えるほど、あたしと彼の記憶は一緒である。 『遥音(ハルネ)、俺のこと、見てて』 隣の高校との練習試合の前、香唄(こうべ)高校の体育館と校舎をつなぐ渡り廊下で、応援をしに来ていたあたしに、彼はそう言い放った。 『3ポイント8回以上決めるから見てろ』 『3ポイントって、そんなにたくさん入るものなの?』 『…入らない』 手首につけているリストバンドをいじる翔は、低い声でつぶやくように言った。 なんだ、入らないんだ。 少し落胆するあたしに、彼は小さく喉を鳴らした。 『でも、入れるから』 やっぱりリストバンドをいじる翔は 『8回入ったら―――…俺と付き合って』 自分の手首をぎゅっと握りしめると、体育館に続く道を、ゆっくりと進んでいった。
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