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またこの会社に頼ればいいさ。記憶に上塗りをしよう。実は彼女はどうしようもなく下劣で卑怯な人間だったのだ。それが分かる遺品を見つけた事にすればいい。彼女の存在を全て否定できるほどの。死んでくれて清々すると、心から思えるほどの記憶を作るのだ。
目茶苦茶にしたって構わないさ。所詮作り物の思い出。汚したところで誰が傷つくでも、誰が損をするでもない。
やがて男は覚悟を決め、目を閉じた。
「ごめん……俺がバカだったよ……」
震えるまぶたの向こう側から、彼女との思い出が蘇ってきた。
初めて手を繋いだ昼下がりの商店街。旅行の計画を立てた雨の日。一緒に買い物袋を持って歩いたアパートへの帰り道。少しおどけて前を歩く彼女の後ろ姿。
そして、彼女がかけてくれた最後の言葉。
「ずっと一緒にいてあげられなくて、ごめんね……。私のこと忘れないでほしい。でも前に進んでほしいよ……」
偽りの記憶から本物の涙が流れた。
男は星に向かって彼女の名を叫んだ。届かない彼女の名を何度も。
涙と鼻水で、男の顔は人生で一番ブサイクになった。その顔のまま、男は背筋を伸ばして歩き出した。時々星を見上げながら。
そして二度とその会社を訪れることはなかった。
それから二年後、ある本が出版された。男が綴った問診票から生まれた一冊の本。数えるほどしか売れなかったが、それは読んだ人の心を少しだけ変えた。
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