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何秒もかからないうちに一ノ瀬がリビングへと戻ってくる足音がした。しかし酷い顔をしている俺は顔を上げられず、俯いたまま声を押し殺すしかなかった。
─ パサッ
「…!?」
頭にふわふわとした何かをかけられ、俺はデジャヴを感じながら顔をあげた。すると俺の目線に合わせ、床に膝立ちをする一ノ瀬の姿があった。
頭にかかった白いタオルが視界に入り、一ノ瀬が何のためにリビングを出て行ったのかその時わかった。
「馬鹿なこと考えすぎ」
髪をわしゃわしゃとタオルで拭かれて、俺はギュッと目を瞑りされるがままになっていた。その時だけは何も考えずただ身を委ね、人の温もりを近くで感じることができた。
しばらくすると一ノ瀬は髪を拭く手を止めた。俺は瞳をゆっくり開き、一ノ瀬の顔を見つめる。
(きっと一ノ瀬は俺を見捨てない。そう。あの時…中学時代も一ノ瀬だけは俺を無視しなかった……─)
そう思うと少しだけ安心して表情が緩んだ。
すると一ノ瀬はゆっくり瞬きをした後、タオル越しに包んでいる俺の頰を引き寄せた。端正な顔が角度を変えながら近づいてきて、気づけば吐息が触れ合う距離にいた。
「…ん…っ……?」
触れた唇は柔らかくて、初めての感触だった。しかしそれを堪能するよりも困惑と衝撃でいっぱいになって、息をするのも忘れていた。
名残惜しげもなくその紅い唇は離れていき、伏せられた長い睫毛がゆっくりと上がる。
「僕は変わらない」
そう言って一ノ瀬は俺の目の端についた雫を親指で拭う。
「これからもずっと。」
声は聞こえているのに全然頭に入ってこなかった。わかったのは俺と一ノ瀬の唇が触れたことと、その唇が柔らかかったことぐらいだ。
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