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あの女は、追いかけてこなかった。当然だろう。別に後悔はしていなかった。
家を出て数分。お互い無言でひたすら歩いていく。
私は、三歩先を歩く店長の姿を黙って見つめていた。
誰もいない道を、二人の足音だけが響いている。
「ごめん…勝手なことして…」
ふいに立ち止まり、声を洩らす店長。さっきまでの威勢を置いてきたのではないかと言わんばかりな弱気な声だ。
こっちを振り返ってはくれない。
私も足を止め、並んだ二つの影を見つめながら答えた。
「本当ですよ。私はどこに行けばいいんですか?店長の家に泊めてくれるんですか?」
負けないくらい消え入りそうな声で問いかける。店長が困ることくらい分かっているのに。
「それは…」
やっぱりだ。
「…冗談です。馬鹿ですよ店長は。こんな厄介な女の為にあんなに言い返して。」
自嘲気味に笑って独り言のように呟く。
店長が振り返らなくてよかったと思った。
こんな情けない顔、見られたくない。
「藤塚さんは、厄介なんかじゃないよ。とても優しくて素敵な女性だ。だから、否定されたのが許せなかったんだ。」
「…ほんと、ズルいですよ。でも…ありがとうございます。」
「これからのこと、一緒に考えさせてほしい。まずは病院に行って診察を受けよう。ずっと付き添うから。」
「…はい。」
いつの間にか空が夕焼けに染まり、真っ赤な光が私達を照らす。
「店長…。」
「ん?」
それを合図に、私は思わず手を伸ばし、触れていた。
後ろから手には一切触れず、店長の服の裾をきゅっと握り締めていた。
服だけだから、温もりを感じられない。だけど指先が痺れた様にドキドキする。
それでも店長は振り返らない。だけど振りほどくことはなかった。
本当は、その背中に抱きついて直に体温を感じたい。だけどそれは許されないから、せめて僅かな感触を掴みたかった。
(これだけで…充分。)
この時気づいた。男と身体を重ね合わせなくても、お金をもらわなくても。
本当に好きな人なら、これだけで心は満たされるのだと。
「藤塚さん…。」
「…私、やっぱり店長の事…好きです。もう奥さんから奪おうとしませんから…。せめて、好きでいることは…許して…ください。」
「……うん。ありがとう。」
その一言だけで、私の心は晴れやかな気持ちになった。
まるでこの夕焼けの様に。
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