序章

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 *  暗い空に雷鳴が走る。  雪おこしだ。  どおりで、さっきから凍てつくように寒いと思った。  いや、真冬の真夜中にパジャマ姿で裸足のまま街路を走っているのだから、寒いのはあたりまえだ。足の感覚はマヒして、もう痛みも感じない。  走り続けて三十分にはなるだろうか?  息が切れ、苦しい。ハッ、ハッと吐く息が白い水蒸気となって闇に消える。  冷たい空気が入りこみ、鼻の奥がツンと痛む。  涙が出そうだ。  なぜ、こんなことになったのだろう?  昨日までは幸福のきわみとまでは言わないまでも、ごく平均的な日本の一般家庭で、平凡な中学生として暮らしていたのに。  蓮池蒼嵐(はすいけそら)は、どこにでもいる十四さいの少年だ。きわだって成績がいいわけでもなく、悪いわけでもなく、顔だけはちょっと可愛いと言われたりもするけど、それも、とびっきりイケメンというわけではない。  なのに——  深夜、かすかな物音がして目がさめた。寝室のふすまがひらいた音だとわかった。五センチほどあいた暗がりを、蒼嵐は寝ぼけながらながめた。 (あれ? おれ、ちゃんと閉めてなかったっけ?)  まさかひとりでに、ふすまがあいたのだろうか?  霊のしわざじゃないよな?  なんて、気軽に考えていた。  九割がた、自分が寝る前に閉め忘れたんだと思っていた。  スキマ風が入る。このままでは寒い。  ふすまを閉めるために、蒼嵐は起きあがろうとした。  だが、そのときだ。ふすまにかかる指に気づいたのは。  誰かが、そこに立っているのだ。スキマから、なかのようすをのぞいているのだと知った。  初めて、蒼嵐はゾッとした。  何かがおかしい。幽霊なんかより現実的な恐怖が背中をザラリとなでる。 (泥棒? こんな田舎に? でも、きっとそうだ。それとも、まさか……)  頭が冴えてくるにしたがって、蒼嵐はイヤなことを思いだす。  半年前から、この町で起こっている連続殺人事件を。  深夜になると、町の住民が一人、また一人と殺される。あっちの家で一人、こっちの家で一人と。犯人はまだ捕まっていない。 (殺人犯だ! うちにまで来たんだ!)  蒼嵐は寝床のなかで滝のような冷や汗をかいた。  このままでは殺される。それに家のなかが、やけに静かだけれど、家族は無事なんだろうか?  父は、母は、弟は? 祖父や祖母は?  どうしよう。みんなに知らせて、なんとかしないと。  起きあがれば、蒼嵐が目ざめていることを犯人に知られてしまう。どうにかして気づかれないように、ここから逃げだせないだろうかと、ただただ布団のなかで焦燥していた。  ところがだ。  次の瞬間、ふすまが、すすすっと、よこにすべった。  そこから人が入ってくる。  薄目をあけて見ていた蒼嵐は、ますます混乱した。叫びださなかったのが不思議なくらいだ。  そこに立っていたのは、まきわり用の大きな斧をにぎった父だった。そのよこには母も……。  二人は部屋に入ってきて、悲しいような険しいような、なんとも言えない目で蒼嵐をながめた。 「お父さん? お母さん? 何してるの?」  思わず、蒼嵐は半身を起こし、両親にたずねた。 「ねえ、怖いんだけど? なんで斧なんか持ってるの? おれが言うこと聞かないから? この前、大輝(たいき)とケンカしたから? 文化祭の日にサボってゲーセン行ってたから? 冗談だよね? ちょっとおどして、反抗期の息子をお仕置きしようとしてるんだろ? ねえ? なんか言ってよ!」  泣きそうになりながらたずねたが、両親は無言だった。  そして、いきなり、父は斧をふりかざしてきた。  父と目があって、本気なのだと蒼嵐は悟った。  本気で、ふりあげた斧を蒼嵐の頭にふりおろすつもりなのだと。  蒼嵐は叫び声をあげて、とびのいた。  反対側の障子を勢いよくひらき、縁側から庭にとびおりた。 「待て! 蒼嵐! おまえは死ななきゃならないんだ」  父の声が聞こえた。  そのあと、しばらく、父が追ってきていた。  やみくもに走りまわるうちに、なんとか、まいたようだ。今はもう父の姿は見えない。  でも、逃げなくちゃ。  逃げなくちゃ。  町をさわがせてた殺人犯はお父さんだったんだ。  きっと、おれに正体を知られたと思って殺そうとしたんだ。  荒い呼気を白く闇に吐きながら、蒼嵐は走り続けた。  交番へ行こうと考えた。  父が捕まるのは悲しいが、そうしないと自分が殺される。せめてスマホだけでも持ってこれたらよかったのにと、蒼嵐は激しく悔やんだ。  交番は町の中心よりも北にあった。町外れに近い。この町がまだ村だったころから、そこにあったということだ。歩いてだと、数十分はかかるだろう。  小学生のころは、交番の近くの神社にまで、写生や清掃奉仕などに行かされた。  目の前に白いものがちらついた。  雪だ。  こんな夜に、よりによって雪が降ってきた。  これ以上、ツライことなんてないような気がしていたけど、寒気がますます迫る。アスファルトの路面が足の裏に張りつきそうに冷たい。  子どものころに、よく見た夢を思いだした。  まだ赤ん坊の蒼嵐が母に抱かれている夢だ。夢のなかでは雪が降っていた。  あのときの暗くて寒くて、さみしい感じを思いだす。  いつしか、蒼嵐は泣いていた。声をあげないよう、じっと歯をくいしばった。それでも涙は、あとからあとから、あふれてきた。  小学校の前を通りかかったとき、どこからか悲鳴が聞こえた。  学校の近くの雑木林からだ。  フェンスでかこまれた校庭のよこに舗装もされていない細い道があり、その奥が雑木林になっている。  通りぬけると神社への近道になった。  あいだにあるのはその雑木林と畑だけなので、夜にそこを通る人などいない。  だが、今、たしかに叫び声が聞こえた。  蒼嵐は迷った。  声はちょうど蒼嵐くらいの年齢の少女のもののように思えた。  足がすべってころんだとか、自転車が泥道にハマったとか、そんなときに出す声じゃない。泣き叫ぶような声——  蒼嵐は慎重に細道に入っていった。土の道を裸足で歩くのだから足音はしない。木や草のかげに身をかくしながら、少しずつ近づいていく。  悪い予感はしていた。  今夜はおかしい。  何かが、いつもと違う。  雪が溶けてぬかるむ道を歩く。  まもなく、雑木林の端に立った。  離れた場所に人魂が見えた。いや、電気の光だ。おそらく、懐中電灯だろう。  雑木林のなかは樹木が乱立しているので身をかくしやすい。木陰にかくれながら、光にむかっていった。  そのあいだも風にのって、女の子の泣き声が聞こえていた。 「ごめんね。ごめんね。お父さん。お母さん。ゆるして。いい子になるから! もう悪いことしないから、殺さないでよぉー!」  ドキリとした。  女の子が両親に殺されようとしている。  それは、あまりにも今の蒼嵐の状況と一致する。  二十メートルほど手前まで来たとき、少女の顔が見えた。  同じクラスの杉本若奈だ。クラスでは目立たないタイプだが、パジャマ姿はちょっとドキッとする。でも、その顔は恐怖にこわばり、涙でグチャグチャになっていた。 「ねえ、お父さん! いっつも無視してごめんなさい! けど、ほんとにキライじゃないんだよ! みんな、してるんだもん。お父さんもお母さんもウザイねって、友達もみんな言うから!」  泣き叫ぶ若奈の前に黒い影が二つ立っている。若奈とは学校のなかだけの知りあいでしかない。これまで両親を見たこともなかった。  若奈の母が懐中電灯を手にしている。  父の手には何かギラつくものがにぎられていた。  懇願する若奈に、若奈の父はそれをふりおろした。  ギャアーッと叫び声がひびいた。それは一生、耳にこびりついて離れないような声だ。  叫び声とかさなり、グニュッ、グニュッというような変な音がする。何度も、何度も、何度も。  若奈の父が、若奈に馬乗りになって包丁をつきさしていた。  そのたびに、パジャマの胸からビュッ、ビュッと血しぶきがふきだす。若奈の足がバタバタとけいれんする。  しばらくすると悲鳴はやんだ。  包丁がつきさされるたびに、口から少量の血の泡がこぼれるばかりだ。 「あなた。あなた。もう……やめて。若奈、死んでる」  若奈の母が若奈の父の背中にすがりつき、父親は包丁をなげだした。放心したように自分が殺した娘の死体をながめている。  蒼嵐は悲鳴が出そうになる口を、自分の両手で押さえた。  信じられない光景を見て、恐怖で動けない。  いったい、この町は、どうなってしまったんだろう?  どうして自分たちの身に、こんなことが?  町で起こっていた連続殺人事件。  あれが何か関係あるのだろうか?  蒼嵐は必死に考えた。  あの事件が、どんなふうに始まったのか——
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