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人々の足は止まることなく流転する。人の集まるこの場所で、各自がそれぞれの目的に向かって蠢くことに秩序は存在しなさそうであるが、鳥瞰のように見ることができたなら人々は大きな渦潮のように吸い寄せられているように見えるのかもしれない。
海の中、渦の中。鰯のような人の群れ。きっと私のように足を止めたりしたものは、あっという間に捕食者の餌食になるのだろう。現実に私に害を為す人などいないのに、巨魚に食べられる想像へと考えは飛躍する。
微かに聞こえた音の源泉を辿ろうとしたのに、気のせいだったのかと思わせる程その音の気配はすぐに掻き消えてしまって、私の頭の中は下らない考え事に移り変わっていた。
「どうしたの?」
それを中断させたのは騒音の中でもはっきりと私にだけに向けられた言葉だ。その流れに抵抗することなく身を任せていたはずの息子が、動きを止めた私を数歩先から振り返ったのだ。
不思議そうな顔をしている息子が足を動かす気配のない私に近付く。
「ねえ、早く行こうよ」
今から向かう筈の場所は、一日私に付き合って連れまわされたお陰ですっかり草臥れてしまった息子の食欲を満たすための場所であったから、足を止める私がもどかしいのだ。
「ピアノ、聞こえなかった?」
「ピアノ?」
こんなに騒がしい場所であっても息子は私の呟くような返答を聞き取っていた。
対象に向けた声というのは、相手の耳にしっかり届くのだ。
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