壊れた日常

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書店で働けば出版社と知り合う機会も多い。注文打ち合わせ終盤に差し掛かれば、世間話も増えてくる。相手との距離を縮め、場の空気を緩和させようという大人の気遣いだ。何か話題をと悩んだ末、5月に発売された私のホラー小説の話を持ち出してみる。もしかすれば小説家としての仕事が得られるかも、という小賢しい計算だ。 「えっ、トシさんは作家さんでいらっしゃったんですか?! これは失礼致しました」 頭を下げる出版社さんに「そんな、やめてください」と慌ててしまう。正真正銘、素人に毛が生えただけの私が作家などと恐れ多いし烏滸(おこ)がましい。 「私も仕事柄、ホラー小説を書かれている作家さんに何度かお会いした事がありますが、ネタ作りというんですか? 大変らしいですね」 確かに簡単な事では無い。けれど私の場合は実体験に基づいた内容なので、それほどでも無いと思う。 「1冊の本が出来るくらい恐怖体験をされているって事ですよね。それはある意味、才能じゃないですか?」 【人ならざる者】を見る力が才能ならば、そうかもしれない。だが努力して掴み取ったものでも望んで得たものでも無いので、褒められても嬉しくはない。むしろ相手に譲り渡す事が可能ならばラッピングして譲りたいくらいだ。 「最近はどうですか、何か恐怖体験をされましたか?」 その言葉を聞き、私は一瞬呼吸を忘れてしまう。忘れたい記憶が顔を覗かせる。 ――あの時、私は、何故。 背中に重いモノがのしかかってきたような感覚。下げた目線の先で、微かに震える自分の指先が見えた。
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