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二階堂視点(本編)
最寄りの駅から自宅に帰る途中だった。びゅっと風を切る音がしたと思ったら、歩道を歩いていた二階堂の革靴に、ふわりと桜の花びらが落ちてきた。
二階堂は立ち止まり、通り過ぎたばかりの
公園に目をやった。そこには立派な桜の木があることを以前から知っていた。
今は四月初旬。桜が満開の時期だ。
そして、彩人がニューヨークに旅立ってからちょうど一週間が経った。
――一週間。
二階堂は、つい歩調を速める。
すぐに十五階建てのマンションに辿り着く。二階堂は一つ深呼吸をしたあと、顔を上げた。自分の住む部屋――1003号室の窓を見る。
明かりは点いていない。真っ暗な部屋。
落胆のため息が口から零れた。
本当だったら、今日彩人は日本に帰ってくる予定だった。彼が予定を変えて、ニューヨークに留学をしなければ――。
もしかしたら、ニューヨークの美術学校に通うという話は嘘で、予定通りあの部屋に帰ってきているかもしれない――そんな一縷の望みを持ってしまった。足早になって帰ってきてしまった。やはり彼はいないのに。
足取りは重くなる。部屋に帰りたくないとさえ思った。でも帰るしかない。他に帰る場所はない。
自宅のドアを開け中に入る。電気を点けると、三和土には自分のスニーカー一足しかない。桜の花びらが二枚、靴の近くに落ちている。
――おかえり。
彩人の声が聞こえた気がして、二階堂はアトリエ部屋まで歩を進める。どうせ空耳だと分かっているのに。
彩人との同棲は一年にも満たなかった。そこまで長く一緒に暮らしていたわけではない――それなのに、彩人の声が耳にこびりついている。
会社から家に帰ると、毎日のように玄関に走ってきて、彩人はぴょんと二階堂に抱きついてきた。「おかえり」と嬉しそうに言いながら。
好かれているのは確かだったのだ。
抱擁すればギュッと力を込めてきた。キスをすれば夢中で舌を絡めてきた。繋がっているときはこの上ないほど艶っぽい顔をして、嬉しそうにほほ笑んだ。
よく気持ちを言葉にしてくれた。「すき」と。
どうして歯車が狂ってしまったのか。
ふたりの関係に不安を覚えた出来事はある。自覚している。
U美術館大賞の結果通知が来た日――二階堂が勝手に『ミュージアム』を出品したことが露見した日だ。
彩人は激しい怒りを二階堂にぶつけてきた。彼がフェリテを退職するきっかけになった二階堂の過去の所業も糾弾してきた。
――あんたは俺を愛してない。俺の才能を愛してるだけなんだよ。
諦めたように彩人は小さい声で言ったのだ。二階堂の気持ちを否定することを。
――愛してる、なんて誰にも言ったことがなかったんだ。
彩人に言うつもりだってなかった。そんな恥ずかしい、甘い科白なんか。
なのに言ってしまった。勝手に口からこぼれ出た。
二階堂はあの時初めて知った。愛の言葉は言おうとして出てくるものじゃないのだと。
彩人がなぜ、そこまで怒ったのか、泣いたのか、最後には悲しそうな表情を浮かべたのか、――二階堂には完全に推し量ることができなかった。
彼の類まれな才能を伸ばし、何事にも煩わされることなく絵を描ける環境を与えてやりたい――そう思うことが何故いけないのか。
彩人には画家になれるほどの、絵の才能があったのだ。フェリテで正社員にでもなったら、仕事に忙殺され絵を描くどころではなくなる。アルバイトで働いているときでさえも、カンバスに描く時間は少なかったのだ。
日を追うごとに、二階堂は彩人に、フェリテでバイトすることも辞めさせたくなった。自分が彼を雇うように人事に頼んだというのに。
『ひまわり』の店内にある壁画を見たときから、彩人に絵の才能があることを直感した。だが、壁画ということで絵柄が大味だったことと、既存作家(それも有名なゴーギャン)の絵に似ているということもあって、画家になれるほどの才能なのか否か判断がつかなかった。
しかし、彩人の絵を見るたびに、彼の才能が本物であるという確信は強くなっていった。
初めて彼のスケッチブックを見たとき、今にも飛び立ちそうなハシビロコウに息をのんだ。ブランコを漕ぐ少女たちの絵はノスタルジックで、でも皮肉が効いていて、商用の絵も描けるのだと感じた。そしてゴールデンウィーク明けに彩人の部屋で見たカンバスの絵に、二階堂は決定打を受けた。とくに自分をモデルにして描かれた絵には、衝撃を受けた。ダイナミックなタッチの顔の赤い線、真っ赤に塗りつぶされた背景。特徴を如実に表した二階堂の顔――。
見た瞬間、胸が震えた。全身に鳥肌が立った。と同時に、彼の自分に対する激しい恋情を知り、困惑と喜び――そして欲望を覚えた。
――あの時点で、俺にとってあいつは特別な存在だった。
彩人の絵の才能に惹かれているだけだと思っていたのに。彼に対し、抗いがたい魅力を感じていた。気づかないうちに。
それでも実際に迫られたとき、彼を抱けるとは思っていなかった。彼の巧みな口淫を受けるまでは。
――彩人は男と寝ることに慣れていた。
実に腹立たしかった。だが、直接的な愛撫を施されては、抵抗も儘らない。彩人が自分で受け入れる部分を解している所を見て、更に二階堂は欲情した。
欲望に流されて彩人を抱いたあと、後悔に襲われた。自分には男と真剣に付き合っていく覚悟はない。今まで、女性しか恋愛対象にはならなかった。彩人を抱けたからといって、彼と恋人関係になろうとは思わなかった。
面倒なことになった――そう思ったのは否定できない。でもこれだけは決意した。彩人が絵に専念できるように自らがサポートしようと。例え拒否されても、彼の自分に対する恋心を利用すればなんとかなる。
実際それは成功した。定期的に夜に電話をし、彩人の部屋に行って掃除や食事を作るうちに、目に見えて彼の体は健康的になっていった。肉付きも多少良くなり、肌に張りも出てきた。描き上げた絵の枚数も増えた。
ただし誤算があった。二階堂自身にあった彩人に対する恋情の兆しが、速いテンポで芽吹いていしまった。
しばしば見せてくれる彩人の素直な表情、笑顔に目を奪われてしまう。彼の、男にしては線の細い顔の輪郭、形の良い眉、長い睫毛、くっきりした二重に大きな目、通った鼻筋、ふっくらした肉感的な唇――。初めて会ったときよりも、二階堂の目に魅力的に映るようになっていった。
異性に対するそれで彩人のことを見ている。自覚はあったのに素直に認めることができなかった。彼の絵の才能と容姿に惹かれているだけだ、と自分に無理やり言い聞かせた。しかしある時、それが容易く覆った。
五月下旬――。彩人と週末を一緒に過ごすのが当たり前になり始めていた頃。昼休憩から帰って来た二階堂に、辻井と田中が声をかけてきた。
「いま東京美術館で『クリムト展』やってるみたいなんですけど、もしまだ観に行ってないなら――」
「二階堂さんはMoMAに行ったことはあるんですか。あるなら、色々――」
「『クリムト展』はもう観に行った。MoMAについて知りたいなら一度自分で行けばいいだろ」
彼女たちの話を途中で遮り、二階堂は自席に着き仕事に集中した。つれない態度だということは分っていたが、これが一番ストレスがかからない対応だった。
辻井と田中が美術の話題を振ってくるようになって最初の頃は、二階堂も彼女たちの話に応じていた。絵画や画家、展覧会の話なら楽しめると思ったからだ。彩人と話している時みたいに楽しめるだろうと。だが、その期待は大きく外れた。
楽しくなかったのだ。辻井が、ピカソやマティスのネットでは得られない裏話を教えてくれても。田中が、美術展で買ってきた図録を見せながら、彼女なりの絵の見解を述べてきたときも。
辻井も田中もバカじゃない。付け焼刃の薄っぺらい知識だけでは、二階堂に相手にされないことは分かっているようだった。だから必死になって勉強し、得た知識を披露してきたのだ。努力の跡は確かに見えた。彩人よりも知っていることが多いと感じたこともあった。
――じゃあ彼女らの何がダメなんだ?
解はすぐに出てしまった。
――俺は月島と話すのが楽しいんだ。
絵の話題が楽しかったのは確かだが、それだけではなかったのだ。
そう思い至ったとたん、彩人の内面にも自分が惹かれていることに、気づいてしまった。
彩人は自分をよく見せようとはしない人間だった。絵の才能を自覚していても、それをひけらかすことを一切しない。描いた絵を押し付けてくることもない――ただ一度、イレギュラーなことはあった。
コルビュジエ展で偶然会った日だ。絵を見終わったあと訪れたテラス席のあるカフェレストランで、彼の優しさを垣間見ることができた。
彩人の描いたハシビロコウについて話していたとき、隣の席からうるさい子供の泣き声が聞こえてきた。その三才ぐらいの男児は、母親に宥められてもなかなか泣き止まない。
二階堂はそれとなく、テラス内に視線を巡らせた。他に空いている席がないか周りをチェックしたのだ。だが、その行為は無駄に終わる。彩人が簡単に隣の問題を解決させたのだ。ドラえもんを流れるような動きでスケッチブックに描き、一枚破って、男児に渡した。
息を吸うみたいに、自然な動きだった。
彩人の顔をそっと窺った。が、彼の顔には「してやった感」が微塵も浮かんでいなかった。男児の母親にお礼を言われても、得意になることもなく笑顔を返すだけ。スマートな対応だった。もしかしたらこういうことは、彼にとって初めてではないのかもしれない。
この日を境に、二階堂は彩人に対する認識を改めたのだ。絵の才能があるのに、頑なに地味で堅実な人生を歩もうとする風変りな青年。それでもって、自分にはちょっと生意気な口を利く奴。そんなイメージから、他人に対し、自然に親切にできる尊い美点がある青年なのだと。その場で彩人を褒めることはしなかったが。
「さいきん月島さんの話ばっかりするね。私と会わずに彼と会ってばっかりだし」
久しぶりに定時で会社を後にし、早乙女と社外で会った日。恋人は遠慮なく不満を二階堂にぶつけてきた。
「結婚の話も最近しなくなったし。どう思ってるの?」
恋人の顔には不安と焦燥が浮かんでいた。
彼女には以前から結婚したいとせがまれていた。付き合いだしてもうすぐ二年――そろそろ彼女の希望に応えるべきか。そんな気持ちが芽生えていた矢先、二階堂は彩人に出会ったのだ。
数秒沈黙を保ったあと、二階堂は彼女にはっきりと告げた。
「結婚は無理だ。俺と別れて、もっと良い人を見つけろよ」
他人事のような科白が口をついて出る。我ながら冷たい態度だと思った。彼女が自分と結婚したいがために、認めてもらうために、仕事を頑張っていたことを知っていたのに。
このときの二階堂は、「ふつうの男の幸せ」に興味が持てなくなっていた。彩人の健康管理と、彼に絵を描かせることしか頭になかった。早乙女には悪いことをしたと思ったが、反面、重荷がなくなって心が軽くなった。これで彩人のことに専念できると思った。だが、二階堂の思うような展開に話は進まなかった。
――二階堂さん、もうこういう電話、かけてこないでください。
夕飯の確認の電話をしたとき、突然彩人に言われたのだ。電話で済ませられることではない。二階堂は強引に仕事を切り上げ、彩人の部屋に向かって、嫌な場面に遭遇した。股を開いた女を、彩人はスケッチブックを持って写生していた。
「本当にあのときはタイミングが悪かったな」
二階堂は、静まり返ったアトリエ部屋を眺めながら独り言ちた。
部屋のなかは、彩人が出て行った一週間前と全く変わらない。イーゼルや椅子の位置も、棚から溢れそうなスケッチブックにも手を触れていない。触れたら――この部屋を片付けたら、本当に彩人が帰ってこないと認めたことになる。まだ二階堂は認めたくなかった。
「彩人」
自分の声がやけに大きく響いた。一人の部屋は、こんなにも静かなものだったのか。
――俺のやったことが返って来たんだろうな。自業自得だ。
二階堂は自嘲的に笑った。
彩人から生活のサポートを断られ、「新しい恋をしてあんたを忘れる」と断言され、二階堂は自分にあった歯止めを、あえて外した。
機会はすぐに訪れた。バンクシー似の落書き騒ぎが起こり、彩人の描いたステンシルアートが、テレビに映った。
二階堂は企画部長にその騒ぎのことを教え、これもバンクシーでは? と疑われている絵が、彩人の描いたものだということを伝えた。
直接彩人をクビにさせるほどの効力はないが、企画部長に心には留まった。
そして、田畑名義でオカピグッズがテレビで放映されたとき、二階堂は彩人の味方につくことを放棄した。
ようやく二階堂の思惑通りに事態が進んだ。
職を失った彩人は二階堂に慰めを求めてきた。二階堂が部屋に通うことも容認し、心待ちにするようになる。明白な言葉はお互い口にしなかったが、二人の関係は上司と部下から、恋人に切り替わったのだった。
だが、こうなっても彩人は一筋縄にはいかない。また仕事を探すと言い、二階堂との同棲を拒否してきた。
――なぜもっと俺を頼らない? 意地を張るんだ。
二階堂には、彩人を養うぐらいの稼ぎも、貯蓄も十分なほどあった。彼の生活の面倒を見ることも全く嫌ではなかった。むしろ、積極的にやってやりたいと思った。彼は生活能力が大幅に不足していたから。
彩人の隣人――頭のおかしい女が起こしたことに強い憤りを感じたが、一方で感謝の気持ちも覚えていた。彼女に襲われて彩人は考えを変えたからだ。
どういう心境の変化が彩人の中で起こったのかは、詳しく聞いていないから分からない。聞きたくなかった。彩人が「画家になる」と意志を固めたきっかけが、自分ではなくあの頭のおかしい女だったということが心のどこかで許せなかった。
「悪いことをしたとは思ってるんだ」
そこに彩人はいないのに、弁解してしまう自分がいる。
「絵に専念してほしかった。お前には才能があるんだ。『ミュージアム』だって、コンクールに出してよかっただろう?」
日本で権威のある『U美術館大賞』で、大賞を取れたのだ。彩人の名前は、美術界で一定の知名度を得たことになる。
「なんであんなに、あの絵を隠そうとしたんだ」
二階堂には理解できなかった。優れた絵を公の場に出したいと思うのは当然のことではないのか。
自分のために彩人が描いてくれたことは分っている。それでも、部屋の一室に飾り、二人以外の誰からも見てもらえないのは、絵が可哀そうではないのか。
心から悔い、謝らなかったのがいけなかったのだろうか。彩人に別離を決意させるほどの言動を自分はしたのだろうが、どうしても理不尽な思いが拭えなかった。
――俺が絵を描き続けるのと、俺と恋人でい続けるの――どちらかしか選べなかったら、どっちを選ぶ?
彩人に問われたとき、二階堂は咄嗟に後者を選ぼうとした。
彩人を愛していた。彼のいない人生を思い描くことなんてできなかった。だが、絵を一切描かなくなった彩人を愛し続けられるのか――自問したとたん、自信を持って答えることができなくなった。
彩人の目が、二階堂の目をじっくり見据えてくる。迷いのある返答で、彩人の決意を揺るがすことはできない。
二階堂は目を瞑った。彩人を失うことなんて考えられないのに、こう答えていた。
「絵を描き続けてほしい」と。
どんなに心が止まっていても、月日は容赦なく過ぎていく。
相変わらず、彩人のアトリエ部屋はそのまま取っておいてある。絵の保管室もそのままだ。二階堂はリビングにあるセミダブルのベッドで、一人で寝ている。
二階堂は、彩人を忘れようとすることをやめた。無理だと悟ったからだ。でも、変に彼を想って自分を追い詰めることもしなくなった。
彩人の部屋を眺め感傷に浸ることを止めた。彼の残していったスケッチブックも、一度もきちんと見ていない。まだそれを冷静に眺められる余裕がなかった。
仕事に没頭する日々が続いた。新商品の開発、クリエイターの発掘、新しいカタログの企画。仕事は山積みだった。
二階堂の元から彩人が去ってから半年が経った。
仕事の関係で、久しぶりに神保町の駅に降り立った。二階堂にとって思い出深い街だ。
彩人が住んでいた街だ。
二階堂は仕事の用事を終えると、衝動的に『コーヒーひまわり』に足を向けていた。
夕方の五時半。店内は会社帰りのOL、テキストを広げている大学生などで、そこそこ混んでいた。
二階堂は空いているテーブル席に座って年配の女性店員にアイスコーヒーを頼んだ。
コーヒーを待つ間に、店内にある壁画を眺めた。彩人の描いた絵だ。
向かって右側に赤ん坊、中央に青年、左側には老女、背景には山もあればビルもある。
色使い、モチーフがゴーギャンの『我々はどこから来たのか我々は何者か我々はどこへ行くのか』を想起させる絵だった。
――ここで初めて彩人に会った。
黒いカフェエプロンを着けて、トレーとメニューを同時に持って、二階堂の元にオーダーを取りに来た。
運ばれてきたアイスコーヒーにはコースターがついてきた。無地の白いコースター。イラストはない。
ここに、日本に彩人がいないことを痛感した。胸が疼くように痛む。
アイスコーヒーを一口飲んだとき、店内で一人、ビーフカレーを食べている女性と目が合った。
二階堂は咄嗟に目を逸らそうとして、やめた。その女の顔を、二階堂は知っていた。
――彩人の隣の部屋に住んでいた女だ。
彼女はマスカラをたっぷり塗った睫毛をぱちぱちと上下させたあと、二階堂の席までやってきた。
「二階堂さん、でしたっけ? 久しぶりですね」
前回会ったときのような、バカっぽい口ぶりはなりを潜めている。まともな人間に見えた。OLっぽい恰好をしているせいか。
彼女は断りもなく二階堂の向かい側に座り、「つっきーは元気ですか?」と尋ねてきた。
二階堂は一拍置いて、「彼はニューヨークに留学しているよ」と答えた。
「へえ、ニューヨーク……遠いところに行っちゃいましたね」
残念そうに女は言う。
「でもそうだね……つっきー絵が上手だったから、海外に出るのもしょうがないよね」
寂しそうに笑ったあと、彼女は二階堂の目を見た。
「私が言うのもなんだけど、つっきーのこと幸せにしてあげてくださいね。つっきーは過去色々ね、辛いことがあったから。つっきーが『そこまでしなくて良いよ』っていうぐらい愛してあげてください」
ぺこっとお辞儀をして、彼女が席を立とうとする。二階堂は咄嗟に「待って」と声を出していた。
「辛いことがあったって、どんな?」
彩人は二階堂に、過去の話をしてくれなかった。父親が画家で行方をくらましていたが五年前に違う作家名でまた絵を描いていること、母親が大学で美術美学史を専攻していたこと――それぐらいしか。本人が語りたがらなかった。大事なのは今だから、と彼は折に触れて言っていた。
二階堂も、無理に聞き出そうとは思わなかったのだ。
「えー、そりゃあ、大学のときとか……」
座りなおして、彼女がテーブルに頬杖を突いた。
「私の兄の愛人をしてたんですよ、つっきーは。私と兄、二十歳差があるんですけど。まあふつうにオヤジだし。そういう人の愛人をしてたんです」
「きみは何歳なんだ?」
失礼を承知で聞いてみる。
「私? つっきーより歳いってます。五歳上」
二階堂は俄かには信じられなかった。
外見も喋り方も、もっと若い印象を受けたのだ。
「つっきーね、親に大学の学費を出してもらえなかったんですよ。出せるお金はあったらしいけど、美大以外に行くなら出さないって言われたそうで。可哀そうですよね。親から自分の意志を尊重してもらえなくて。大学の件だけじゃなくて、お父さんからもお母さんからも、小さい頃から興味を持ってもらえなかったんだって。お父さんは画家で絵を描くことしか頭にないし、お母さんはお父さんの絵しか興味がなくて。だったらなんでつっきーを生んだんだって感じだけど。あ、話が脱線した。愛人の話に戻りますね。つっきー、大学に入って最初のほうはバイト掛け持ちしたりして頑張ってたらしいけど、体壊しちゃったんだって。大学も卒業できなくなりそうだし、お金も稼げないしで困ってたときに、兄の毒牙にかかっちゃったんです。辛かったと思うんですよね。本人は語りたがらないけど。え? なんで私が知ってるかって? 兄に聞いたんです」
一度彼女は話を止めた。頬杖を突いたまま、睨むように二階堂を見た。
「あなたはつっきーの意志をちゃんと尊重してあげてますか? 無理に絵を描かせようとしてませんよね? ニューヨークに行ったのもつっきーの意志なんですよね?」
きつい口調で問いただされる。
「ニューヨーク行きは彼が一人で決めたんだ」
ギリギリまで言ってくれなかった理由が、もう二階堂には分かっていた。
――俺に反対されて、邪魔をされると思ったからかもしれない。
だって自分は、彩人の意志を尊重してこなかった。彼が正社員になりたいと切望していたのに、それを阻んだ。仕事を辞めさせた。
二階堂に贈ってくれた絵を、勝手にコンクールに出してしまった。
「つっきーによろしくお伝えください。もうストーカーしないし。新しい彼氏いるんで」
ニコッと笑って、彼女は席を立った。こちらが拍子抜けするほどあっさりした態度だった。
彼女は新しい道を歩んでいるのだろう。彩人に未練もなさそうだ。
二階堂はアイスコーヒーをストローで一口吸った。だいぶ氷が解け、味が薄くなっていた。
部屋に帰りついてすぐ、二階堂は彩人のアトリエ部屋に向かった。
今更ながら、彩人が過去、どんなことを思っていたのか、考えていたのかを知りたくなった。
自分が彼に買い与えた棚から、スケッチブックをすべて出し、一冊一冊、ゆっくりと見ていく。
スケッチブックからは、そのとき彩人が興味を持っていたものが窺える。テーブルに置かれた果物、皿、スプーンを立て続けに描いていたり、空の移り変わりを十数ページにわたって描いていたりもした。
見覚えのあるページもあった。ハシビロコウ、クールベの『世界の起源』をオマージュしたようなスケッチ、ブランコの少女。そして二階堂をモデルにしたスケッチ。
二階堂は懐かしい思いでその絵を何度も見つめた。
次のスケッチブックに手をつける。と、そこには、イーゼルの前に腰を掛けて絵を描いている男の後ろ姿が描かれていた。その横に立って、絵を眺める女性の姿もあった。絵に色はついていない。
――彩人のご両親だろうか。
遠き日の。
二階堂は直感した。この絵は、過去、彩人が眺めていた風景で、彼の映像記憶によって再現されたものなのだと。
絵の中の夫婦は仲が良さそうだった。女性の手が男性の肘に触れている。その接触に、親密なものを感じた。だが、絵、全体としては寂しい印象を受けるのだ。巧みに鉛筆で描写された部屋の陰影で、そう感じるのかもしれない。
――彩人はいつも、ご両親の後ろ姿を見て育ったのかもしれない。
三人で足並みをそろえて歩いたことがないのかもしれない。
――ああ、この絵は。
置き去りにされた子供が描いた絵だ。だからこんなに見る者を悲しい気分にさせるのだ。
彩人が画家を目指さなかった理由も、今更ながら理解できた。
絵のことしか考えない両親のもとに生まれ、育って、彼は幸せじゃなかったのだ。
彩人は絵を職業にしていた父が、落ちぶれていく姿も身近で見て来ている。
――俺は彩人の気持ちを全然わかっていなかった。理解しようとしていなかった。
ふつうの生活、ふつうの職業に就きたいと願う彩人の気持ちが本当に今更、二階堂の胸に迫ってきた。
次のページを捲る。そこには見覚えのある絵が描かれている。
――ミュージアムの下絵だ。
フリーハンドでラフに描かれたものだったが、中央にある窓、そこから伸びた日差し、壁や階段に配置されたカンバスは、『ミュージアム』そのものだった。
構想メモも走り書きされている。それら一つ一つに目を通した。
『いつもあなたと会った場所には絵があった』
『あなたを俺だけのものにしたいけど、それはできないから、この絵にあなたと俺を閉じ込める』
『ここはあなたと俺だけのミュージアム』
読み終えたあと、二階堂は微動だに出来なかった。何も考えることができなくなった。ただ、目に映る文字だけを、見ていた。
自分が取り返しのつかないことをしてしまったのだと、思い知った。あの絵は唯一無二の物だったのだ。彩人の想いを詰め込んだとてもパーソナルな絵だったのだ。
「彩人、ごめん」
二階堂は初めて、心から彩人に詫びた。自分以外誰もいない空間に、震える声が虚しく響いた。
その後、スケッチブックを全部確認したが、二階堂が棚に忍ばせた一冊は出てこなかった。
眠る彩人をモデルにした下手くそなスケッチ。
以前、彼と観覧車に乗ったときにした会話を、二階堂は覚えていた。
自分が中学まで油絵を描いていたと言ったら、彼はこう言ったのだ。
――二階堂さんの絵、見てみたいな。
絶対描かない、と言い返すと、彼は尚も言った。
――俺の肖像画とか。
描かないと突っぱねたものの、彩人と恋人になって、彼の寝顔を頻繁に観察するようになり、彼を描きうつしたいと思うようになった。自分には映像記憶の能力が残念ながらない。でも、何度も描いていくうちに、彼の顔を鮮明に、緻密に思い描けるようになるかもしれない。
そんな気がして、二階堂は彩人が寝入ったあとに、彼の寝顔を描くようになった。寝ているとき限定なのは、彼に知られたくなかったからだ。「描かない」といった手前、彼をモデルにして写生しているところを見られるのが嫌だった。恥ずかしいし、バツが悪いし、格好悪い。
セックスの後、疲れが残る体を丸め、無防備に眠る彩人。Tシャツにパンツ一枚で寝相悪くベッドから片足を出す彩人。涎を垂らして眠りこける彩人。寝ている彼の手を二階堂がそっと握ると、握り返してきたこともある。その時の自分の気持ちを言葉にするのは難しい。胸のあたりが温かくなり、幸せだと思うのに喉が苦しくなった。
「俺のを持って行ったのか」
この部屋を出て行く前に、彩人は中身を見ただろうか。どんな想いで見てくれたのだろうか、彼は。
本当は、彩人にあのスケッチブックを見せるきはなかった。上手でもないし、寝顔ばっかりだし、見せるのは普通に恥ずかしかった。それでも彼の棚の奥にしまい込んだのは――彼に驚いてほしいと思ったからだ。喜んでもらいたいとも思った。
自分は言葉で彼をあまり喜ばせられない。相手から先に好きになったとか、変なプライドがくすぶっていたし、言葉にするのは照れる。
――でもあいつは、惜しげもなく言ってくれた。
だから二階堂は、彩人にノートを贈った。いつかその存在を知り、ページを捲ったとき、隣に自分がいることを願って。
彩人がニューヨークに旅立って一年が経とうとしていたとき、二階堂はリサーチ目的で入った書店で、適当に取った雑誌を捲って息をのんだ。
そのページを穴があくほど、見つめてしまった。
『ニューヨーク クラブ事情』
そんな特集のページ。クラブの外観の写真がページに収められていた。
――彩人の絵だ。
コンクリートの打ちっぱなしの建物に、口笛を吹いているような女性の横顔。黒いスプレーのステンシルアート。これだけでは彩人の絵だと特定するのは難しかったかもしれない。だが、壁の端には彼の好きな鳥が、青いスプレーで描かれていた。緻密に、鮮明に。ハシビロコウが。
――彩人もあっちで頑張ってるんだな。
素直に喜べる自分がいた。
二階堂はその雑誌を購入して書店を後にした。
――俺も頑張らないとな。
彩人がいなくなってから、二階堂は仕事一筋になっていた。職場の女性からは相変わらずモテていたが、その中の誰かと付き合おうとは全く思わなかった。
新しい恋愛で忘れられるようなものではなかった。彩人と過ごした日々は。
それからさらに一年が経ったときだった。
美術館の展覧会情報をネットでチェックしていたとき、彩人の名前が出てきて、思わずスマホを落としそうになった。慌てて両手で持ち直したが、画面をタップする指は湿り、震えた。
『U美術館大賞を受賞された月島彩人さん、初の個展 場所 U美術館 期間 四月六日から四月十一日まで』
彩人の名前を目にしたとたん、彼に会いたいと思う気持ちが怒涛のように溢れた。
この二年で、彼がいないということに慣れたはずだったのに。
スマホに映る彼の名前を、指で何度もなぞった。
――会いに行ったら駄目か? 彩人。
もう自分は、彼の行動を制限したり監視したりすることはない。彼の意志を尊重できる。その自信がある。そして――。
――彩人がもし絵を描かくなっても俺は、愛せる。
彼自身を心から愛していると自信を持って言える。
だから許してもらえないだろうか。過去、自分が犯してしまった過ちを。
二階堂はスマホでスケジュール帳を確認した。四月六日、火曜日。午前中、外出の予定もないし大事な会議もない。
前日の月曜日、明日は午前中半休を取ると部下に伝えると、「企画部長が休むって珍しいですね」と少し驚かれた。
当日、U美術館のエントランスドアの前に立ったとき、二階堂の鼓動は高鳴っていた。館内に、彩人の姿を認め、緊張で手の平に汗が浮いた。
こんなに緊張したことが過去あっただろうか。他社向けのプレゼンだって、難しい企画会議だって、こんなに緊張したことはない。
ガラス張りのドアを右手でゆっくりと開け、二階堂は館内に体を滑り込ませる。
顔を合わせたら、どう話しかければ良いだろうか。ここに来るまで時間はあったのに、どうしてもしっくりくる科白が頭に浮かばなかった。
彩人の顔を見て、そのとき思った素直な気持ちを伝えよう。
二階堂は深呼吸を一度して、ゆっくりと彩人が座る作者用の机へと歩いていく。了
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