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過去3
その日の夜――十九時を数秒過ぎたときに、二階堂から電話があった。
彩人はすでに帰宅していた。鮭を焼いて、ご飯を温めている所だった。
「夕飯食べたか?」
いつもと変わらぬ美声だった。胸が痛くなる。
「今からです。今日はご飯と鮭とサラダです。――二階堂さん、いま話せますか」
「どうした? 仕事で何かあったか」
「仕事は大丈夫です。――二階堂さん、もうこういう電話、かけてこないでください。もう俺、規則正しい生活できてます。寄り道しないで自炊してごはん食べて」
「俺が電話しないとずっと絵を描いてるだろ」
そうかもしれない。夕飯を食べて食器を洗って片付けて、そのあとは絵を描いている。彼からお風呂の電話が掛かってくるまでずっと。
「これからはスマホでアラームを設定します。だから大丈夫です」
「お前がそこまで言うなら、そうだな――」
二階堂にしては珍しく歯切れが悪かった。
「土日も来てくれなくて大丈夫です。三食ちゃんと食べるし、夜も早く寝ます。それでもって絵も描きますから。なんなら休み明けに、描いた絵を持って行きましょうか」
二階堂の目的は、彩人の絵なのだ。そうだ、なんで絵を持って行って見せる、ということを思いつかなかったのだろう。今まで。
「なんで急に――何かあったのか」
「ありません。今まであんたに甘えすぎてたんだ。でももう大丈夫だから。規則正しい生活しつつ絵もコンスタントに描いてあんたに見せる。それでいいだろ」
「お前ちょっとおかしいだろ。――今からそっちに行く」
「来るなよっ! 勝手なことするな」
彩人が言い終える前に、電話は切れた。
彩人はスマホの時計を見た。十九時五分。会社からここまで徒歩と電車で二十分程度。
――来ないよな。来るなって俺言ったし。
だが、彩人の中で、来そうな予感と、来なさそうな予感がせめぎ合っている。
彩人はとりあえず夕飯を食べた。今日は質素な食事だ。黙々と食べていると、さっき喫茶店でコーヒーを飲み損ねたことを思い出した。一口も飲まないで帰ってきてしまった。千円も出したというのに。
二階堂のせいでもあるから、もし彼がここに来たら、千円もらっちゃおうか。いや、今まで貢がせてしまったのだ。むしろこちらが金を返さないといけないのだ。
――もうこういうことはしないって決めたのに。
愛人をしたせいで失ったものは沢山あった。金は手に入った。生活は楽になった。大学は卒業できた。でも、心の一部が抜け落ちたよな喪失感がある。その感覚は今もある。
多分それは、言葉にすると「誇り」なのかもしれない。金では得られない、目には見えない大切なものだ。
更に周りの信頼も失った。
中山を含む大学の友人も。
男のマンションを出た後、彩人は中山の部屋に転がり込んだ。一週間で良いから泊めてくれと頼んだ。
その一週間で、物件探しから契約まで済ませ、神保町の今のアパートに引っ越したのだ。
就職活動はすでに終わっていた。ベンチャー企業一社から内定をもらっていた。学費も払える。二か月分、家賃を前払いしている。
あとはそれ以降の家賃を稼ぐためにバイトをするだけだ。
将来は明るいと思っていた。
だがそれから二か月後、想像もしていなかった出来事が彩人を襲った。
午後の大学の講義が終わって、中山たちとキャンパスを出ようとしたときだった。
「あなたが、あやさんですか?」
写真を手に持ちながら、その女は彩人の前に立ちふさがった。
「え?」
彩人のことを「あや」と呼ぶのは、あの男だけだった。
彩人は無言で女を見た。彼ほど腹は出ていなかったが、だいぶ太っていた。身長は百六十あるかないか。体重は、百七十センチの彩人よりもあるかもしれない。
とくに特徴のない顔だった。あの男と似ているかどうかは判断できない。化粧はしていない。
「あやさんでしょ? この写真の人」
彼女が見せてきたのは、裸でベッドに横たわっている彩人の写真だった。
「なんだよこれっ」
彩人は慌てて彼女の手から写真を奪おうとした。が、さっと手を後ろに回され、避けられた。
「兄と同棲されていたあやさん。あなたが兄に言った暴言のせいで、兄はおかしくなってしまいました」
「俺のせいでって……」
「兄に酷いことを言ったのを覚えてないんですか」
彩人は口をつぐんだ。別れ際に、確かに酷いことを言った。
――お前みたいなデブ、普通なら相手にしてねえよ。勘違いしてんじゃねえよ、ブタ。
普段ならどんなに憤っても言わない科白。でもあの時は、彼から逃げたくて理性がなくなっていた。
彩人が無言でいると、なおも彼女は言い募った。
「兄はあなたにデブとかブタとか、生理的に受け付けないって言われたのをきっかけにダイエットを始めたんです。短い期間で急激に痩せました。当たり前です。毎日水とサラダしか食べなかったんだから。それでどうなったと思います? 今度は食べて吐くようになったんです。下剤も使うようになりました。摂食障害になったんですよ」
彼女が涙ぐんだ目で睨みつけてきた。
彩人は呆然としながら、女が言った言葉を反芻していた。
――俺の言ったことで、摂食障害になるなんて。
罪悪感に襲われた。でもその一方で、女が言っていることは逆恨みなんじゃないか、とも思った。
ダイエットのきっかけを作ったのは確かに自分かもしれない。でも、その後の展開は彼自身の気質の問題じゃないのか。
「兄に会って、謝ってください。暴言を撤回してください」
彼女が目を見開いて、彩人に訴えてくる。
「このまま治らなかったら、兄はまともに生きていけません」
彩人は首を横に振った。彼とは二度と会いたくない。無理だと思った。
「どうしてもだめですか?」
「俺はあの人に会いたくありません」
「そうですか」
彼女は静かに言って、視線を彩人の向こう側に向けた。そこには不審そうな顔をして彩人たちを見守る友人たちがいた。
「この人、男の愛人してたんですよ。これ見てください。いっぱい写真あるんですよ。この人と、ほら、こんなすごいことしちゃうんですよ」
女は唾を飛ばして、中山たちに写真を配った。携えていた鞄から写真の束を出して、今度は空に巻き上げた。
「――やめろ、やめろ!」
彩人は蒼白になって、彼女を羽交い絞めにした。だが遅かった。
空に舞った彩人の嵌め撮り写真は、あちこちへに飛んで行って、地面に落ちた。
友人たちは表情を凍らせたまま佇んでいた。
彩人はばら撒かれた写真を、必死になって拾いに行った。
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