彩人激やせ

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彩人激やせ

 花見の翌日――四月八日、月曜日。  彩人に良い波がやってきていた。  まず、出社してすぐに室生に呼ばれ、彩人にステンシルシートのデザインを頼んできた。 「週末に、このムーミンのヘナタトゥーを私のインスタで投稿したのよ。そうしたら結構反響があったの」 デザインのサンプルを百は準備して、と命じられた。  プレゼンは室生がするとのことで、気が楽だ。  更に、彩人のプレゼンを見ていた他ブランドの社員が、「ハシビロくんに次ぐブサカワ動物キャラ、考えてくれない? 良いのがあれば採用するから」と声をかけてくれたのだ。  彩人のキャラクターデザインに興味を持ってくれたらしい。  そういうわけで、四月の二週目から、本来任せられている雑務をやりつつデザインの仕事もこなすことになり毎日多忙を極めたが、彩人の生活は充実していた。仕事にやりがいが出てきたし、正社員に近づいている気がして嬉しかった。  職場の人間関係も良好。女性の社員とは良い距離感を築けている。昼休憩に手の甲や手首にワンポイントのヘナタトゥーを頼まれることも多々あり、三百円でひきうけている。ちょっとした小遣い稼ぎになる。 二階堂と隅田とは、週一で昼食を共にする。奢ってもらえるから家計が助かるし、彼らと話すのは楽しい。  二階堂が雇用について話してくることもなくなった。  仕事中、ふと集中が切れると、『紙もの。』の島を眺め二階堂の姿を探している。そんな自分に嫌気がさしたが、時間が解決してくれるだろう、と自分に言い聞かせた。  デザインの仕事は休日にも家でやるようになり、土日の日課だった油彩画を描けなくなった。『ひまわり』の壁画も途中で止まっている。後藤からステンシルアートのオファーがあったが断った。  そして、香苗が部屋のインターホンを鳴らしても、彩人は居留守を使うようになった。一度コンビニで声をかけられたが、誘いを断った。彼女とはもうセックスしないと決めているし、話し相手になるのも億劫だった。彼女をモデルにした絵にも色を塗っていない。  キャラクターデザインではなく、絵が描きたい――そんな欲求が溜まりに溜まったとき、ちょうどゴールデンウィークに突入した。  頭の中には、描きたい絵の構想が山積みになっていて、それを形にしていくのにうってつけの十連休だった。  一度描くと止まらなかった。ベッドを横に倒してスペースを確保し、カンバスを床に並べ、思いのままに描いていく。  四月に行った花見の場面、桜の木、コルビュジエが設計した国立西洋美術館、二階堂の顔、自分の脳内で渦巻く、暗闇で光る七色の螺旋――。  食事も入浴も面倒になった。朝辛うじて食パン一枚を食べたが、昼、夜は食べるのを忘れた。睡眠は三時間とるかとらないか。着替えもしない。体力がなくなって連休最後の日は寝そべって絵を描いた。  ――なんか痩せた? 俺。  ゴールデンウィーク明けの朝、鏡に映る自分の顔を見て「やばい」と呟いた。  頬がこけていた。顎に摘まめる肉はない。もともと痩せていたのだが、更に痩せた。  鎖骨が痛々しいほどボコッと出ている。  四月に購入した服を着てみて、またガッカリした。シャツはブカッとしてしまいシルエットが台無し。ボトムはウエストが緩くなって、ベルト必須。  彩人が出社すると、上野に開口一番「痩せた?」と心配そうに言われた。 「病気でもした?」  隣の高松にも聞かれる始末。  隅田には「ヤバいぞ」と言われ――二階堂には「いい加減にしろ」と怒られた。  昼休み、二階堂に腕を引っ張られてステーキ屋に連れて行かれサーロイン二百グラムとライス大盛、サラダ大盛を強制的に食べさせられた。 「十連休、何やってたんだお前は」  ため息混じりに問われた。憂いの帯びた顔も相変わらず格好良い。彩人は彼に見惚れながら、素直に「絵を描いてました」と答えた。 「どんな絵だ?」  二階堂の顔が急に輝いたものになる。彩人は自分の目がおかしくなったのかと思った。食パンしか食べてなかったし、目に栄養が行き届いてなかったのだと。 「どんな絵だって聞いてるだろうが」  今度は苛ついた声になって、問いただしてくる。 「あ……色々です。風景画、抽象画、静物画……」  言ってる途中で眠くなってきた。一応ランチは全部食べて腹はパンパンだ。  コーヒーをゆっくり飲んでいるうちに、瞼が重くなり、二階堂の声が遠くなり、体ががくがく揺れて、彩人は椅子から落ちた。
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