アドラーの教え

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アドラーの教え

 また二階堂の声が聞こえた気がして、彩人は目をゆっくりとあけた。とたん、誰かに上半身を起こされ肩を揺すられていることに気がついた。 「お前……本当にいい加減にしろよ」  ウンザリ顔の二階堂が目に映った。 「え? 俺、なにかいけないことしましたか」 「裸で床に倒れてるとかおかしいだろうが」  二階堂がブチ切れたみたいに大声を出した。 「すみません。シャワー浴びてベッド行く途中で寝落ちしました」 「――お前は幼稚園児か? 歩きながら寝るって……さっきもコーヒー飲みながら寝たよな」  こめかみを指で押さえながら二階堂が唸った。さっきから彼らしからぬ言葉遣いをしている。感情も出しまくっている。 「ていうか……なんで二階堂さんいるんですか」  彩人は目を擦って部屋を見まわした。窓の外は真っ暗だ。明かりのついた散らかった室内――昼より片付いている気がするが――スーツ姿が格好良い二階堂、そして全裸の自分――。 「うわあ、すみません!」  とりあえず股間を手で隠し、体を横にねじって起き上がった。急に体に力が入った。 「えーと、もう一回伺います。なんで二階堂さんが俺の家にいるんですか」  今の状況が全く理解できない。記憶がかなり欠損しているようだ。 「夕飯持ってきてやったんだよ。どうせ一人じゃ食わないと思って」  二階堂が持参したビニール袋を軽く振って見せてくる。デパ地下の袋のようだ。  ほか弁とかコンビニ弁当じゃないのが、二階堂らしい。 「ありがとうございます。でも俺、あんまり今食べられないかも。さっき昼に食べたもの吐いちゃったんです」  正直に言うと、二階堂が「そうか」と落胆したように呟いた。 「俺が悪かった。無理やり食わせた。そうだよな、断食の後はふつう復食メニューだよな。粥とかうどんとか」 「いや、そんな謝らないでください。栄養付けさせてくれようとしたんでしょ。ありがとうございます」  二階堂は意外と面倒見が良い。クールを装っているが、本当は熱い人間なのかもしれない。 「お粥作ってやるよ。お前は服着て寝てろ」  二階堂がジャケットを脱ぎ、ワイシャツを肘まで捲った。 「そこまでしてもらうわけには……」  彩人は二階堂の申し出を辞退した。これ以上優しくされたら、本当にマズい。 「遠慮しなくて良い。本当は違う目的があってここに来た」  自嘲的な笑みを浮かべて、二階堂が彩人の顔を見た。 「お前の描いた絵を見たかった。昼に来たときは時間がなくてちらっとしか見られなかった。だから今来てるんだ」 「俺の絵……」  彩人は足元をぐるりと見た。散乱しているのは、絵筆、絵の具、パレットだけだった。カンバスは落ちていない。 「絵は」 「ベッドの方の壁に立てかけてある。全部見させてもらった」   彩人は自分の顔から血が引いていくのを感じた。  ――あの中に、二階堂さんの絵があるのに。  描いたのは頭から胸のあたりまで。鮮明な彼の顔の記憶を筆でなぞって、カンバスに再現させた。背景は感情のままに、衝動のままに色を付けた。  彩人は二階堂の顔をまともに見られなくなった。羞恥よりも、恐怖の方が強かった。  二階堂の姿も、自分の描いた絵も視界に入れないようにして、ベッドの下に埋もれた服を屈んで取る。 「俺の絵も見た」  ――その話題はちょっと困る。  いや、ちょっとどころではない。一生話題にしてほしくない。  美術鑑賞に疎い人なら誤魔化せるかもしれない。だが二階堂は――。 「マティスの絵みたいだった。見る者の感性を揺さぶる絵。――描かずにはいられない――そんな激情を感じた」  二階堂がキッチンに向かいながら静かな声で話す。  彩人は拳を握って、床に転がった赤い油彩絵の具のチューブを見つめた。 「俺のことが好きなのか」  ストレートな質問に、彩人の喉はひくりと動いた。  そういうんじゃないです。その一言を口に出そうとして止まる。  ――否定してどうする。どうせバレてるのに。  あの絵を見れば一目瞭然。赤く塗られた背景。赤い線で引かれた輪郭――ミケランジェロタッチ。  言えない想いをカンバスに込めたのだ。 「そうです。だから何なんですか」  俺を好きなのか、なんて確認してきて。どういう思惑でもってそんなことをするのか。  否定してほしかったのだろうか。否定したって、信じてくれないだろうに。  彩人は二階堂の前に立ち、強い目で見上げた。 「だったら何なんだよ。わざわざ聞いてくんなよ。わかってんのに」  大人なら「そっ閉じ」しておいてほしかった。明日も明後日もそれ以降も、職場で顔を合わせるのに。 「お前の気持ちを確認しておきたかったんだ。それによって俺の対応も変えないといけないだろ」 「明日からどうするんですか」  お粥を作っている場合じゃないだろうに。さっさとここから帰ればいい。 「俺は気にしない。いつもと同じように接する」  二階堂は彩人の全身を一瞥して、「早く着替えろよ」と冷静なことを言った。 「俺はあんたのことが好きなんだよ。それで気にしないって」  気にするだろう。ふつう。 「俺のことを好きなのはお前の問題であって俺の問題ではない。俺は会社で自分のやるべきことをやるだけだ」 「アドラーかよ」  どうしようもなく胸糞悪くなってきた。二階堂の言い分も、眉一つ動かさない冷静な表情も。アドラーの教えをそのまんま述べるオリジナリティのなさにも腹が立った。 「俺は無理だよ。もう今までのようには振る舞えない」  二階堂の両肩に手を置く。彼は避けることなく彩人の顔を見つめてくる。 「じゃあどうするんだ」 「俺のしたいようにするよ。俺はあんたとセックスしたい」  気持ちに応えてもらえないことははっきりしている。告白をないものにされるのなら――。 「一回だけでいいから。大丈夫、あんたはちゃんと割り切るよ」 「男相手に俺は勃たない」  二階堂が苦笑する。余裕のある態度。 「じゃあ勃ったらしろよ」  手と口の愛撫には自信があった。三年も男の愛人をやっていたのだ。  キッチンのシンクまで二階堂を追い詰め、彩人は彼のベルトを外した。ここに来てやっと二階堂が動揺したように体を揺らした。 「勃たない自信があるんだろ」  挑む目で二階堂を見つめながら、手を動かす。スラックスと下着を一気に下ろして、彼の露わになった陰部に手を這わす。  ――何やってんだろ、俺。  急に冷静な自分が戻ってきたが、もう後戻りはできなかった。
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