オカピ

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オカピ

 昼休み終了五分前に、彩人は一人で会社に帰りついた。 「もう……なんで私がこの席に」  向かい側の席に移った辻井が文句を言ってくる。 「正面から二階堂さんの顔見られて良いじゃないですか」  彩人が宥めると、「あんたのせいなんだけど!」と腹立たしそうに強めの声でまた文句だ。 「ほーんと、月島くんって二階堂さんに気に入られてるよね。この前のお花見でも楽しそうに喋ってたし。あんな二階堂さん、初めて見たんだけど」  今度は田中が彩人に話しかけてくる。 「話が合うの?」 「――趣味が合うんです。二階堂さん、絵画を観るのが好きで、俺もそこそこ絵に詳しいから」 「へえ、そうなんだ。そんなこと本人から聞いたことなかった。私も絵に詳しくなろうかな。美術展とかなら誘ったらOKしてくれるかもしれないし」  田中が突然、鼻息荒くスマホを操作し始めた。 「今、都内でやってる美術展って結構あるね。あ、あと本も読んどこ。月島くん、おススメの本とかある?」 「美学美術史とか絵画で検索すれば沢山出てきますよ」  彩人は田中の行動力に感心してしまった。そこまでして二階堂と仲良くなりたいのか。彼には恋人がいるし、付き合える可能性なんて一パーセントに満たないと思うのに。 「田中! 抜け駆けは許さないからね。私も絵画に詳しくなる!」  辻井が負けじと、スマホを忙しなく操作している。  たまに近くの女性に話しかけられながらも、彩人は集中してキャラクターデザインの仕事をこなし、室生に頼まれたステンシルシートのデザインのサンプルを百、作り終えた。  十七時のチャイムが鳴ったので、帰り支度をしていたその時、室生と共に見慣れない女性が『サニーデイ』の島にやってきた。 「私物はここにまとめてあるから」  室生がデパートの紙袋を女性に手渡している。 「――あの人は?」  彩人は田中に小声を訪ねた。  暗い表情で荷物を受け取る女性が、なんとなく気になった。 「イラストレーターの田畑さんだよ。『サニーデイ』の服の模様とかプリントとか、ワンポイントのイラストを受け持ってたの。でも、彼女のイラストを使った服がとことん売れなくって、うちが契約切ったんだよ」  ひそひそ声で説明してくれる。  ――そういえば田畑って名前、聞いたことあるな。 すぐに『サニーデイ』あてによく電話をかけてきた人だと思い当たる。日が経つにつれて声が暗くなっていった人だ。 「可愛い絵柄だよ。私は気に入ってたんだけどなあ。売れなかったらどうしようもないからね」  お気の毒……と、田中が同情を込めて言った。  彩人が会社のエントランスを通り抜けたときだった。駐車場近くのスペースで蹲っている女性を見かけた。  もしかしたら気分が悪いのかもしれない――そう思って彩人は彼女の傍に寄りしゃがみ込んだ。 「あの、大丈夫ですか。ご気分悪いようなら救急車を呼びますけど」  そっと呼びかけると、女性がゆっくりと顔を上げた。さっき社内で見た女性だった。 「田畑さんですか」 「あなたは?」  彼女が目を擦った。すっかりパンダ目になっている。 「俺は月島って言います。フェリテでバイトします」 「月島さん……さっき室生さんが話してた人だ」  田畑の表情が更に暗くなった。 「期待の新人だって言ってた。私に契約解除の話をした後に、嬉しそうに」  恨みがましい目で見られ、彩人はとばっちりを受けた気分になる。この状況じゃ、室生の言葉を嬉しく受け取れない。彼女は無神経すぎる。 「田畑さんのイラスト、可愛いって言っている人もいましたよ」  何を言っても慰めにはならないと分かっていたが、彩人は頭をフル回転させて言葉を絞り出した。 「私も可愛いって思ってた。きっと売れるって自信もあったんだ。でも新作トピックで紹介されても反応が全然なかった。定価で売れなくて半額にして。それでも売れないから七十パーセントオフにして。やっとはけてきたって思ったのに、返品続出。もうどうしようもない……」  田畑がボソボソと言葉を連ねる。  彩人は田畑に同情を覚えた。  ――だから好きなことを仕事にするって大変なんだよな。 「月島さんは期待されてて良いね。ヘナタトゥーだっけ? デザイン任せられてるんでしょ」 「はい。百個作れって頼まれて、今日やっと終わったんです。あ、良かったら、ヘナタトゥーしてみますか。俺、ヘナペースト持ってるから」  彩人が提案すると、田畑が「良いんですか」と顔を上げた。 「良いですよ。ワンポイントならすぐできるんで。何が良いですか」 「動物のオカピが好きなんです。知ってます?」 「知ってますよ」  オカピといえば、上野動物園にいる動物だ。ハシビロコウの檻の近くだから、何度も見ている。脚の縞模様が綺麗で森の貴婦人と呼ばれている。脚だけ見るとシマウマみたいなのだが、オカピはキリンの仲間なのだ。  伏し目がちの目、ピンと立った耳を強調して、気持ち美人風に顔を仕上げてみた。体は手の甲に収まるように小さくしたが、足の縞だけ細かく描写する。 「うわあ、本当にオカピだ。すごい可愛い」  田畑が顔をほころばせ、手の甲をマジマジと眺めている。 「ありがとうございます。ちょっと元気が出ました」  彼女は笑おうとして失敗した。口角は上がっているのに目からは涙が零れる。  ――やっぱりこの世界は厳しい。  どんなに仲間内で評価されても、売れなければ終わり。次の仕事は貰えなくなる。  アパートに帰りついたとたん、スマホに着信があった。出てみると、『ひまわり』の幸恵からだった。 「店内の壁画にお客さんがコーヒーばしゃってかけちゃって。時間があるときに重ね塗りとかしてくれないかしら」 「じゃあ閉店時間に行きます」  二つ返事でOKする。絵の頼み事だったら何でも来いだった。  コーヒーを被った部分だけなら一時間もかからないだろう。そう思ったのだが――。 「幼稚園の子供を連れてのママ友たちのランチ会だったのよね。こっちが目を離している隙に、二、三人の子供がバシャバシャやっちゃって」  と、幸恵に壁の惨状を説明された。  コーヒーで汚れた面積は二メートル四方。  彩人は幸恵に許可を取って、壁画補修を徹夜で仕上げた。  翌朝、一睡もできないまま会社に行くと、目ざとく二階堂が突っ込みを入れてきた。 「月島、目の下に濃い隈が出来てるぞ。どうした」  呆れ半分、怒り半分の面持ちで。 「いやちょっと、事情があって徹夜したんです。『ひまわり』の壁画を補修してて」 「お前、本当にこのままじゃ早死にするぞ」  お前を信用するのやめた、と二階堂が匙を投げたように言う。  その日から、彩人の生活は二階堂の管理下に置かれるようになったのだ。
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