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過去
「隈、消えて来てるよ。良かったね」と、田中に言われてホッとしながら、帰りの支度をしているときだった。
二階堂に廊下に呼び出され、メモを渡された。
「これは平日のタイムテーブルだ。できるだけこの通りに生活しろよ」
A6サイズの紙を広げて、彩人は顔をしかめた。
『19時 夕食(なるべく自炊する)』
『23時 風呂』
『24時 就寝』
「なんですか、これ」
「だからタイムテーブルだって言ってるだろ。この時間に電話するから」
「電話っ?!」
「ちゃんとこの通りに行動しているか確認の電話」
彩人はあんぐりと口を開けたまま、暫し返事をすることができなかった。あまりにも一方的な二階堂の言葉に、腹が立ってくる。
「こんなの、俺の自由意志がないじゃないですか。いつ夕飯を食べようが寝ようが、あんたに関係ないだろ」
「お前の場合、ちゃんと予定表がないと生活がグダグダになるんだ。きちんと健康管理ができるようになるまで、俺が管理してやるって言ってるんだよ」
「余計なお世話です!」
はっきりと断ったのに、二階堂から電話がかかってきた。
十九時になると「飯食ったか」、二十三時になると「風呂は入ったか」、二十四時になると「もう寝てるよな?」。二階堂の管理体制下に置かれるようになった火曜日は、最悪だと思っていたのに――。
二日目にはストレスを感じなくなった。三日目になるとスマホを肌身離さず持つようになった。二階堂は声が良すぎる。あの声をずっと聞いていたくなる。
四日目の夕飯の電話では少しでも長く話したくなって、食事のメニューを教えた。二階堂は律儀にもそれに対する雑感を述べてくれた。
風呂の電話では、「今から入ります。今日はちゃんと湯舟に浸かります」「そうか偉いぞ」という会話が成立。褒められると嬉しい。
就寝の電話では、「お休みなさい、二階堂さんは何してるんですか」「いま家に帰ってきたところだ」「そうですか、お仕事お疲れ様です」こんな感じ。
――土日はどうするんだろう。夜、かかってくるのかな。
かかってきたらいいのに、と土曜日の遅く起きた朝に考えていると、二階堂専用の呼び出し音がスマホから流れてきた。
「あ、二階堂さん、なんですか」
本当は嬉しいのに、ちょっと迷惑そうな声を作ってしまう。
「今から行くから。部屋にいるよな?」
「いますけど、なんですか突然」
「どうせ暇だろ」
そこで電話が途切れ、四十分後に二階堂がやってきた。
「今から掃除するから、お前は絵でも描いてろ」
「いや、上司にそんなことさせられませんから」
「こんな埃っぽい部屋にいたら病気になる。俺は掃除が好きだから気にしなくて良い」
彩人が止めても、二階堂は持参したハタキで天井や蛍光灯の周りの埃をささっと払って、クイックルワイパー(ドライとウェットタイプ両方)を使ってフローリングの拭き掃除を始めてしまう。
部屋の主は彩人なのに、どうも居心地が悪くなり、「じゃあ俺、『ひまわり』の壁絵描いてきます。まだ途中なんで」と言って、画材を持って外に出た。
――二階堂さんがオカン化してる。
本当の母親は、そこまで彩人の世話を焼いてくれなかったが。
彩人の両親は、放任主義だった。ネグレクトも入っていたかもしれない。
母は仕事が忙しいと言って学校の行事には参加してくれなかった。父は授業参観と運動会にひょっこり現れることがあったが、他の親とは違う目的で来ていた。創作に必要なインスピレーションを得るためのロケ取材だったのだ。
父は絵を描くことしか頭になかったし、母は父の創作活動を支えることしか頭になかった。彩人が小学校低学年のときに絵のコンクールで入選してからは、絵画教室に通わせてくれたり、美術展に連れて行ってくれるようになった。
大学にも進学させてくれるはずだった。折に触れて、「うちはあまりお金がないけど、大学には行かせてあげるからね。それぐらいのお金はプールしているから」と話してくれていた。
だが、母の中では、その言葉には続きがあった。「ただし、美大に限る」が。
彩人が美大には進学しないと告げたとたん、母が手のひらを返した。絶対に入学金も学費も出さないと言い出したのだ。じゃあ奨学金を借りて大学に行くと言うと、母は保証人になることを拒絶した。母は頑なだった。
高校の三年間、バイトで貯めていた金で、大学の入学金と、一年次の前期の学費は辛うじて払うことができた。だが、都内で一人暮らしをしながら、後期の授業料を捻出するのは大変だった。アパートの家賃、水道光熱費も自分で払わなければならないのだ。
バイトは二つ掛け持ちした。土日はホテルのラウンジでホール係。平日はコンビニの深夜バイト。大学の講義にも出る――そんな生活をしていたら体が悲鳴を上げた。
ホテルのラウンジで中年の男性客にコーヒーを出そうとしたときに眩暈が起こった。彼のスーツの袖にコーヒーを零してしまったのだ。
平謝りする彩人を、その男は快く許してくれた。
「大丈夫? 顔色が悪いよ」
心配までしてくれた。
翌週の土曜日に、その男はまたバイト先に現れた。
「体調は良くなった?」
彩人がオーダーを取りに行ったときに声をかけてくれた。
優しいおじさん。そんな印象。
彼はお世辞にも格好良いとは言えない容姿だった。身長は百六十センチ程度、彩人より低かった。恰幅は良かった。メタボ体型というやつだ。顔は不細工の部類に入っていた。
彼と初めて会った日から三か月が経ったときだった。ラウンジのテーブルを拭いているときに眩暈が起き、床に横転したとき、彼が一番先に駆けつけてくれた。
「いつも必死で働いているよね。僕でよかったら話を聞くよ」
優しい声で言われて、彩人はつい自分の辛い状況を話してしまった。大学の後期の授業料を稼ぐために働いているが、忙しすぎて体を壊してしまったこと。最近は原因不明の眩暈を起こすことが多く、大学も休み勝ちになって留年しそうなこと。
勉強も、稼ぐことも儘らなくなっていて、どうすれば良いのか分からなくなっている――そんな弱音を吐いた。
「そうなんだ、大変だね」
男は同情を示した後、こう続けた。
「僕のマンションで暮らしたらどうだろう。家賃はタダになる。もしよければ大学の費用も出してあげるよ」
夢のような話だった。そんな夢みたいな話があるわけないとも思った。
――やっぱりなかった。
「その代わり――」
男の口元がいやらしく歪んだ。
愛人契約の提示。
彼は容姿コンプレックスを持つゲイだった。こんな容姿だからと、恋人を作ることを諦めていたが、彩人に一目ぼれして、どうしても親密な関係になりたいと思ったそうだ。
「僕を好きになって欲しいなんて言わない。お金は払う。だから」
月に四回、彼に口で奉仕すること。月に二回、アナルセックスを受け入れること。
これが条件だった。これさえ受け入れれば、住む場所と大学の費用四年分が手に入る。
後がないところまで追い詰められていた彩人は、彼と愛人契約を交わした。
相手は生理的に受け付けない男だった。だが、背に腹は代えられない。
大学を留年したくなかった。留年したら、もう卒業は絶望的だ。眩暈の症状がいつ治るかも分からない。バイトを続けられる自信もない――。
初めてフェラチオをしたときは、気持ちが悪くて堪らなかった。男を射精させたあと、彩人はトイレに駆け込んで嘔吐した。フランクフルトが一時期食べられなくなった。
体を嘗め回されたときは全身に怖気が走った。虫が這っているような感触だった。
アナルセックスは、慣れるまでに時間がかかった。自分の指でほぐす行為は、さほど難しくなかったが、男のものを挿入され腰を揺すられると、尻の奥が響くような痛みに襲われ、性交中は歯を食いしばって我慢していた。彼の角度の取り方が悪いと気がつき、彩人が積極的に騎乗位をするようになると、辛い痛みからは解放された。愛人を始めてから二年経った頃には、中だけでイけるぐらいアナルセックスに慣れてしまっていた。
学費以外に、必要経費はお小遣いとしてもらい、バイトをしないで勉強に専念した。
眩暈の症状も、大学三年の頃から起こらなくなり、生活は楽になっていった。
だが、贅沢だけはしないように気を付けた。大学の友達に旅行に誘われても断った。サークルにも入らなかった。
常に不安があったからだ。男は裕福ではあったが、収入が不安定だった。彼は株とFXのトレーダーで儲けていたのだ。取引に失敗したら突然資産がなくなる可能性もある。
男からもらった金をコツコツ貯めて、大学四年になった頃には、まとまった金額になっていた。
そして大学四年の八月――彩人が危惧していたことが起こった。
男の仕事がうまくいかなくなったのだ。大学の後期の授業料が払えないと告げられた。
「わかりました。自分でどうにかします」
彩人の通帳には、それぐらい払える額が記載されていた。
「じゃあ、愛人の契約は解除ですよね」
正直なところ、この展開は彩人にとって喜ばしいものだった。
どんなに性交を重ねていても、男に対して生理的な嫌悪は拭えなかったのだ。
セックス中、彩人は目を瞑って行為に及んでいた。男の顔、体を見ないようにしていた。
「今すぐ出て行きますね」
鼻歌を歌いながら荷造りを始めると、男が「行かないでくれ」と泣きながら訴えてきた。
「お金も住むところも失いそうなのに、あやまで失ったら生きていけない」と。
彩人には訳が分からなかった。 男の頭がおかしくなったんだと思った。
お金を払えなくなった男となんで一緒にいなければならないのだろう。そんな義理は一切ないのに。
「三年同棲していたんだ。俺に情が生まれてるだろ? お金がなくても俺と一緒にいてくれるだろう?」
男はとんでもない勘違いをしていた。少しぐらいは彩人に愛されていると。
「金のないあんたと暮らすわけないだろ。最初から生理的に受け付けなかったんだ。学費を払ってくれるから我慢してあんたと寝てたんだよ」
「なんでそんなことを言うんだ? 嘘だよね? 俺のこと好きだよね?」
ウンザリした彩人は、荷物を両手に持って玄関へと走った。
「あや、行くな」
追いすがってくる男に、手首を掴まれて、全身に鳥肌が立った。相手の湿った手の感触に吐き気がした。
「お前みたいなデブ、普通なら相手にしてねえよ。勘違いしてんじゃねえよ、ブタ」
大声で罵倒したあと、彩人は彼の手を振り払って玄関から外に出た。
彼はもう追ってこなかった。
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