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過去2
『ひまわり』の裏口に着いた彩人は、壁の周りに養生シートを敷いた。壁から距離を置いた場所に立ち、出来上がってきている自分の作品を眺める。
晴れ渡った青い空に、ふわりと浮かぶ雲。壁の中央には砂浜でできた孤島。一本だけ立つ緑生い茂る大木――。今からそこに一羽のハシビロコウを追加する。
壁画は好きだ。描くのも見るのも。
彩人は中学の頃にストリートアートに興味を持ち、近所で作品を見られる公園を片っ端から当たった。時間帯は早朝に絞って。
幸運はすぐに訪れた。実際に作業している現場を目の当たりにし、彩人は自分もストリートアートをやってみたい、教えて欲しいと彼らに頼み込んだのだ。
「中坊にはまだ早いよ」
馬鹿にしたように二十代の男たちがニヤニヤ笑った。
言葉で彼らを説得できなかったので、彩人は持参したスケッチブックを見せた。リーダー格の男の態度が一変した。
彩人は彼らの仲間として受け入れられ、活動を共にするようになった。
中学から大学を卒業するまでだ。
愛人をやっていた期間はとくに精力的に活動していた。彼に与えられたマンションの一部屋では、油彩は禁じられていた。自室でできることといったらスケッチブックでドローイングだけ。欲求が溜まって、そのはけ口がストリートアートに向かったのだ。
彩人のデザインした壁画は、アンダーグラウンドでは密かに評価されるようになり、個人的に仕事を頼んでくる人間も出てくるようになった。
渋谷のクラブの壁にスプレーとペンキを使ったグラフィティ、個人宅の外壁にステンシルアート、排気ガスにまみれた地面に蒸気を吹きかけるリバースグラフィティ。
多種多様なやり方で壁を飾った。
グループでの活動はすべて非合法だった。刑法260条の建造物損壊罪と261条の器物損壊罪に当たる落書き行為だ。建物の所有者に訴えられれば警察に捕まることもある。(滅多にないと思うが)
だから大っぴらに過去の行いを話すことはできない。
大学を卒業すると同時に、彩人はグループから抜けて、個人客の依頼だけ受けるようになった。実費のみ受け取って。
今思うと、大学時代までは色々とやらかしていた。
愛人を辞めたあとの半年間は、一番性生活が乱れていた。
愛人期間中、彩人はあの男としかセックスしていなかった。契約で彼以外とはしない、と約束させられていたからだ。だから、晴れて自由の身となったとたん箍が外れた。
出会いの場に自ら赴いて、声をかけてきた相手が自分好みであればホテルに直行。男女問わずだった。
愛人時代に後ろでの快感を覚えたせいだ。定期的に男が欲しくなった。高校時代は女の子としか付き合ったことがなかったのに。
途中で性的嗜好が変わったのか、もともとバイだったのか。はっきりとは分からないが、後者だと思いたかった。
あの男によってバイにされた、とは思いたくなかった。悔しい。
社会人になってからは男と寝るのを辞めた。普通で真面目な人生を送ろうと思った。リセットしたい気持ちがあった。
――人生ってほんとうまくいかない。
ルックスには恵まれているし、地頭もそんなに悪くはない、と思う。どうしてまともな道を歩めないのか。
「あーあ」
彩人はぼやきながら、壁の前に立ち、絵筆を走らせていく。
絵を描いている時間だけが、しんどい現実を忘れさせてくれる。絵が、好きだ。
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