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部屋でランチ
「おい、いったん描くのやめろ。昼ごはんの時間だ」
二階堂に声をかけられ、彩人の意識は現実に戻された。
「あ、もうそんな時間ですか」
また自分は時間を忘れていた。
「十二時十五分。これでも少しは、お前に声をかけるのを待ったんだ。夢中で描いてたから」
「――ありがとうございます。ちょうど描き終わったところです」
二階堂の気遣いが嬉しかった。自然と笑みが浮かぶ。
「描き終わったのか――ほのぼのとした明るい絵だな。これからの季節に合うな」
二階堂が彩人の横に立ち、首を動かして壁画全体を眺めた。
「ええ、夏を意識して描きました」
「でも、少しだけ寂しい感じがするな」
「――そうですか?」
意外な意見だった。自分の感情は一切絵に込めていなかったのに。
「ハシビロコウの顔が寂しそうだ。もう一羽増やしたらどうだ?」
彼はそう言って、彩人を見下ろしてくる。二階堂の眼差しは優しい。
「帰ろう。腹減っただろ?」
二階堂に促され、彼と並んでアパートまで歩く。なんだか胸がこそばゆい。
――帰ろうって、言った。
その言葉が、彩人の心を浮き上がらせた。
部屋のドアを開けたとたん、カレーの良いの匂いが漂ってきた。家庭的なカレーのにおい。
「すみません、掃除してもらったうえに料理まで」
部屋の中が一変している。入ってすぐのキッチンスペースは拭き掃除されている。料理で使った鍋やお玉がちゃんと洗われていて水切りに並べてあった。ベッドの横には棚がある。その中に綺麗に画材がしまい込まれている。フローリングの床がピカピカ光っている。空いたスペースに折り畳みテーブルが置かれ、カレーとコーンスープの皿が二人分載っている。
「美味そう。早く食べたい」
カレーを見たとたん飢餓感に襲われた。お腹がぐうと鳴る。
二人は床に座って、向き合って食事を始めた。二階堂が使っている食器――皿、スプーン、箸は自前だろう。見たことがないから。
カレーを半分ほど食べたところで、少し空腹が満たされ、食事のペースを落とした。
二階堂がそれに気がついたのか、スプーンを皿に置いて話しかけてくる。
「フェルメールが残した作品がいくつか知ってるよな?」
また美術系の話題。でも楽しいから良い。
「三十五ですよね」
「そうだ。三十五しかない。あの天才がそれしか残せなかった」
残念そうに二階堂が言う。
「彼は働いていましたからね。父親が経営していたパブを継いで」
「よく知ってるな」
二階堂が感心したように笑い、「三十五枚――ピカソなら数年で描ける数だ」と続けた。
「描くペースには個人差がありますから。フェルメールは一枚一枚すごく丁寧に描いていたし」
「四十二か三で死んだっていうのもある」
「ピカソは九十一歳まで生きた」
「お前は早死にするな。もっと作品を残せ」
真剣な口調になって、二階堂が彩人の顔を見た。
――言いたいのはそれか。
フェルメールやピカソの名前をわざわざ出してきて。
――二階堂さんらしい。
彩人はプッと笑ってしまった。
「何がおかしい? 俺は真面目に話してるんだぞ」
「分かってます」
こんなに心配してくれたり世話を焼いてくれる人は今までいなかったから。照れ臭いのだ。
「――嬉しくて」
本当に嬉しい。でも辛い。よけい好きになってしまいそうだ。――いや、すでに、彼への気持ちはどんどん膨れ上がっている。
四月に桜を見に行った時よりも、この部屋でセックスした時よりも、昨日電話をくれたときよりも。想いは留まることを知らない。
彩人は俯いた。二階堂がどんな顔をしているのか、見ることができない。迷惑そうな顔をしているかもしれない。
――二階堂さんは、俺に絵を描かせるためにここに来ているんだ。
体を壊したら絵が描けないから、部屋の掃除をしてくれて、料理を作ってくれた。
絵のためなら彼は何でもしてくれそうだ。
「二階堂さん、俺、外で絵を描きたいです。天気良いし。どこか景色がいい所に連れてってください。できれば観覧車がある場所」
にっこり笑っておねだりする。
「景色が良くて観覧車があるところだな?」
少し悩むように首を傾けたあと、二階堂は「お台場はどうだ?」と提案してくる。
「めっちゃデートスポットじゃないですか」
彩人は呆れて言った。男二人で行っても悪目立ちするじゃないか。
「あのなあ、むしろ観覧車があるところなんてデートスポットばっかりだろうが」
むっとしたような二階堂の顔を見て、また彩人は笑ってしまった。
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