早乙女

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早乙女

 翌週から仕事が忙しくなった。  週半ばに行われた企画会議で、室生のヘナタトゥー用ステンシルシートが採用されたのだ。掲載するカタログも決まり、彩人が発注先に商品の細かい指示を与える係になった。  それとは別にもう一件。ブサカワ動物シリーズの話を振ってくれた社員に、二十種類のキャラクターを考案したら、とんとん拍子に企画会議に取り上げらえることになったのだ。  こちらも採用され、『紙もの。』に載る運びとなった。ブサカワ動物のレターセット、メモパッド、マスキングテープがラインナップされる。  キャラクターの詳細を詰めていく作業で忙しく、一日があっという間に終わってしまう。本当は残業したい。しないと仕事が追い付かない――そんな状況なのに、終業のチャイムが鳴ると「さっさと帰れ」と二階堂から職場を追い出される。 「でもねえ、本当にこのままじゃ仕事が追い付かないよね。正社員にしてもらいたいよね」  昼休憩のとき、室生が嬉しいことを言ってくれた。 「俺も、正社員にしてもらえたらって思いますけど」  試用期間中は正社員になれないと二階堂が言っていた。 「人事部にちょっと相談してみるわ。月島くん、本当によくやってくれてるもの。二階堂さんが月島くんを正社員に推してくれればいけると思う」 「ありがとうございます!」  そんな会話があったものの、それ以後、室生からは音沙汰がなかった。  二階堂とは良い関係を築いていた。昼休憩は、ほとんど毎日一緒に食べていた。外に食べに行くときもあれば、二階堂が弁当を作ってきてくれて、公園のベンチで食べることもあった。  平日は二階堂の電話で規則正しい生活が送れるし、土日は彼が家事をしてくれるので、絵を描くことに専念できるようになった。土日どちらかは、景色のいい場所に出かけた。  週末は二階堂と一緒にいるのが当たり前のようになっていた。  香苗とは顔を合わることがなくなった。彩人が居留守を使い続けていたから、香苗が察してくれたのだと思った。ゴールデンウィークに入ったあたりからずっと、隣の部屋からあまり物音がしない。  六月に入り、『紙もの。』のカタログが詰めの段階に差し迫った頃、来るべき時が来た。  その日は一日、二階堂が社外に出ていた。  仕事を終えて会社のエントランスを出たとき、見覚えのある美女に声をかけられた。 「月島くん、ちょっと話せるかな?」  形のいい卵型の顔、黒髪のショートカット――二階堂の恋人だった。  彩人は近くの喫茶店に連れて行かれた。クラシックが流れる、オリジナルブレンドが一杯七百円の店だった。 「さいきん彰人と仲良くしてくれてるんだってね。ありがとう」  一瞬「アキト」って誰だ? と考えてしまった。すぐに二階堂のことだと思い至る。いつも自分は苗字で呼んでいたから。心の中でも。  次いで感じたのは、なんでこの人が「ありがとう」と言うのだろう、ということだった。  胸のあたりがモヤモヤした。 「二階堂さんにはお世話になってます。ありがとうございます」  なんで彼女に「ありがとうございます」を言うのか。不本意な気分になる。でも言うのが普通なのかもしれない。彼女は二階堂の恋人だ。 「彼に色々聞いてるよ。月島さん、絵の才能があるんだってね。あなたが良い絵を描けるようにって彰人がサポートしていることも知ってる」  ――なんでも彼女に話してるんだ。  当たり前のことだと思うのに、ズキリと胸が痛んだ。 「月島さん、前に神保町で会ったときより、垢ぬけたね。髪型も服もお洒落だし、肌にも艶がある」  彩人の顔や肩、首のあたりをじっくり見て、早乙女がくすっと笑った。 「パトロンみたいだよね、彰人」  彩人は自分の顔をそっと撫でた。たしかに前より肌の調子が良いかもしれない。規則正しい生活、栄養のある食事に加え、二階堂がくれた洗顔料を使っているからだ。  次いで自分の着ている服を見た。これも二階堂が勝手に彩人の部屋に持ってきたものだった。服が少なすぎると言って。  髪の毛を摘まむ。この前の休日に二階堂に連れられて、彼の行きつけの美容院で髪を切ってもらった。支払いは二階堂がしてくれた。  ――本当だ。彼女の言う通りだ。  彩人は突如気がついた。二階堂に現金を渡されているわけではないから、貢がれているという自覚があまりなかった。彼はとても自然に彩人にものを渡す。こちらが罪悪感を感じさせないように。トータルでいくらぐらいになるのだろう。  すうっと体から熱が引いていく。  サポートをしたい、と彼に申し入れられた時、迷惑だと断ったのに。いつの間にか、上司と部下とは剥離した関係に陥っている。 「俺の生活態度が酷いから、二階堂さんが色々面倒を見てくれたんです。すみません。でももう、自分でちゃんとできますから。二階堂さんには頼らないようにします」  これはまずい、これはまずいことになっている。   自分の中で警鐘が鳴っている。 「そうだよね。月島さん、もうすぐ二十五だもんね。自分の生活ぐらい自分でどうにかしないと」  早乙女が伏し目になって笑う。 「月島さん、秘書課でも人気があるよ。同じぐらいの年齢の子、紹介してあげようか」  彼女いないんでしょ? と探るような目で聞いてくる。 「いませんけど――今はまだ彼女はいりません。俺、まだアルバイトだから」  秘書課には正社員しかいなかったはずだ。バイトと付き合いたい正社員はそういないだろう。 「俺、本当にもう、二階堂さんには頼らないようにしますから」  だから早く帰らせて欲しい。  早乙女の言葉は、チクチクといちいち胸に刺さるから。 「彰人のお父様はね、フェリテの親会社――M商事の役員なの」  突然の話題転換だった。 「M商事、ですか」  誰もが知っている大企業だ。そこの役員を親にもつなんて――。  ――本当にお坊ちゃんだったんだな。  食べ方が綺麗だったし、住んでいるマンションも家賃が高そうだった。身に着けているものもどれも値が張りそうだった。裕福なのだろう、とは思っていた。 「つまりね、彰人は将来、フェリテで高い地位に立つってことなの」 「そうでしょうね」  なんでこんな話をされるのだろう。彩人は額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。 「私ね、一度彰人にプロポーズしたことがあるんだ。でも、断られた。『お前と結婚して何かメリットあるの?』って。彼、家事全般得意だし、何でもこなせちゃうから。家のことをしてくれる奥さんの存在って、不要なんだよね。それで私、仕事頑張ったんだ。社長付きまで上り詰めた」  ふいに早乙女が、目をぱちぱちさせた。彼女の瞳には涙の膜ができていた。 「努力を認めてくれたの、彰人は。今年に入ってすぐ、久しぶりに結婚の話を振ったら、前より柔らかい態度で聞いてくれた」  話を一度切り、早乙女が唇を強く噛んだ。 「彼と結婚したいと思ってる。でも、彰人の今の状態はあんまりよくないと思う。将来成功するかも分からないあなたのパトロンをしてるとか」 「そうですね」  相槌しか打てない。反論なんてできない。 「端から見てると男に夢中になって貢いでる感じで。自分の彼氏がって思うと、情けないっていうか」  はあ、と大きいため息を吐かれ、彩人は首筋には冷や汗が流れた。 「分かりました。二階堂さんとはこれから、正しい距離感で接するようにします。会うのは職場だけにしますから」  その場しのぎで言っているわけじゃない。彩人は本気だった。  ――潮時なんだ。今が離れる時なんだ。  早乙女は間違ったことを言っていない。恋人の立場から、当たり前のことを発言している。 「分かってくれたなら嬉しい。ありがとう」  早乙女がニコリと笑う。でも、目の奥は笑っていない。 「俺、帰ります」  財布から千円引き抜いて、テーブルに置く。 「私が払うよ? 月島さんバイトなんだから」 「大丈夫です」  彩人はデイバッグを背負って、店内の出口を目指した。
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