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嘘
「あれはなあ、痛い」
自分の卑猥なショットをばら撒かれ、それをなりふり構わずに走って見つけて、地面から拾って、ジーンズのポケットにねじ込んだ。
思い出すだけで胃が竦む。体が震える。
あの男に嵌め撮りを許可した自分も浅はかだったと思う。撮らせてあげたらお小遣い(二万円)がもらえるので、何度か承諾してしまったのだ。
――もう愛人みたいなこと、したくない。
今度こそ、自力で這い上がりたいのだ。
自分の中にある倫理に反することはしたくない。自分を裏切りたくない。
――心を入れ替えるんだ。
彩人は決意して立ち上がった。
食器を洗って、布巾をハイターで漂白しているときだった。インターホンが鳴った。
彩人はスマホで時間を確認した。十九時三十五分。二階堂に違いない。
彩人は深呼吸を一回して、玄関に向かった。
「来るなって言ったのに」
彩人が言いながらドアを開けると、「わっ」と驚いた声が聞こえてくる。女の声。
目の前には香苗が立っていた。
「つっきー、久しぶり。どうしたの?」
「いや、なんでも――。俺に何か用?」
香苗の靴のつま先が、三和土に侵入しようとしている。彩人は「部屋には入れない」とはっきり言った。
香苗が裏切られたような目で彩人を見た。
「もう香苗とはしない。俺の部屋に来るのもやめて」
「なんで? もしかして彼女でもできた? 私がこっちにいない間に」
香苗が泣きそうな声で話す。
「え? いなかったの?」
「いなかったよ。ゴールデンウィークからずっと実家に帰ってたんだから。たまにこっちに服とか本とか、取りに帰ってきてたけど」
「そうだったんだ。――彼女っていうか、好きな人ができたんだ。だから他の人とはもうしないって決めた」
彩人が言い切ると、香苗が不満そうに口をへの字にした。
「その人と付き合ってるってわけじゃないんでしょ?」
「そうだけど。もうしたくないんだよ。好きじゃない人とは」
言ったあと、間違った、と思った。言い過ぎた。香苗に対して「好きじゃない」と言ったようなものだ。
「わかった。つっきーがしたくないっていうなら、もういい。ところでさ、私のアレの絵、色塗ってくれたの?」
いきなり話が変わって、彩人はすぐについていけなかった。
「アレって」
「私のせ、い、き。色塗ってって、前に言ってたじゃん」
「あ――クールベのやつか」
彩人はすっかり忘れていた。あの絵を描いたスケッチブックはすでに使い切っていて、二階堂が買ってくれた棚に無造作に置いてある。彩人はスケッチブックをすぐに消費してしまうのだ。月に三冊は使う。
「じゃあ、今日色塗って明日には渡すから」
シッシ、と手を振ってやる。早く彼女を追い出したかった。
「ほんと冷たいなあ。半年以上エッチしてたのに。ボロ雑巾になった気分だよ私は」
徐々に声のボリュームが大きくなった。たまたま廊下を歩いていた同じ階の住人が、ぎょっとした顔をしてこちらに目を向けた。
「あー香苗、静かにして。ちょっと部屋に入れ」
廊下で騒がれたら近所迷惑だ。恥ずかしいし、ここに住みづらくなる。
だが、部屋に入れたのは間違いだった。
「モデルやったげるから、早く色塗ってよ」
香苗がスカートのホックを外して、床に落とした。次いでフリル付きのショーツも脱ぎ捨てた。
彩人はため息を吐いた。ムラっとすることもない。
――なんか俺、性欲なくなってきてるのかも。
もうすぐ二十五だし、落ち着いてきたのかもしれない。二階堂として以降、自慰もしていない。
「じゃあベッドで股広げて。超速で色塗るから」
「うん。私さ、ゴールデンウィークに実家に戻ったんだけど、なんか沢山食べすぎちゃって。十日で三キロも太っちゃったの。こんな姿つっきーに見せられないって思って、実家にそのまま居座ってダイエットしてたんだ。健気っしょ?」
「ええ? 三キロ太ったぐらいじゃ気にしないけど俺」
女性は数キロ太ったぐらいで大騒ぎして、数キロ痩せたぐらいで大喜びする。
以前付き合った女性もそんな感じだった。
男はそこまで気にしていないのに。
「でもつっきーってデブ嫌いでしょ?」
「程度によるだろ」
そういえば、香苗の体には肉割れの跡がけっこうあった、と思い出す。彼女は痩せては太って、を繰り返すタイプなのかもしれない。
棚からスケッチブックを取り出し、以前描いたページを開いた。ベッドに座って股を開いている女を冷静に観察し、クレパスを持とうとしたところで、玄関のドアに鍵をしていなかったことを思い出す。
「香苗、ちょっとごめん」
彩人は玄関に向かい鍵をしめようとドアに手を伸ばした。が、その瞬間、外側からドアを開けられた。
すぐに二階堂の姿が目に映った。彩人は「最悪」と口の中で呟いた。タイミングが悪すぎる。
「なんだ? 誰かいるのか?」
彼が彩人越しに、香苗の姿を確認してしまう。
彩人は香苗に向かって「早くスカート穿け!」と囁き声でどやしつけた。
香苗は急にスイッチが入ったみたいに、無駄のない動きでショーツとスカートを穿いた。
さすがに香苗も、初対面の男には、羞恥と恐れを感じるようだ。
彼女は「帰るね」と彩人に耳打ちし、逃げるようにして玄関から外に出た。いったん廊下に押し出された形の二階堂が、三和土に入ってから「今のは?」と聞いてくる。
彩人は暫し逡巡した。
答えの選択肢が三つ浮かんだ。ヘアヌードモデル、元セフレ、彼女。
ヘアヌードモデル、と一度答えようと思ったが舌を止めた。代わりに「彼女」と答える。
「彼女?」
二階堂が目を瞬かせた。意外なのだろう。
「あんたのこと好きでい続けても不毛だろ。諦めるためには新しい恋をするしかないかなって」
悪い答えではないと思う。二階堂もホッとするのではないか。もうこれ以上、二階堂に迷惑はかけられない。彼の全うな人生を邪魔する気もない。
「そうか」
二階堂がぽつりと言った。うつむき気味になった彼の顔に、困惑が浮かんだ気がした。
「そうか」
もう一度言う。大事なことだから二回、というわけでもなさそうだ。
「二階堂さんには本当に感謝してます。今まで色々お世話になりました。これからはしっかり自分で健康管理しますから。絵も描きますから」
はっきりきっぱり言って、彩人は二階堂に笑いかけた。
「そうか。わかった」
二階堂は目を伏せて笑った。ちょっと物悲しい感じがするが、自分の気のせいだろう。
「早乙女さんと仲良くしてくださいね」
早乙女は二階堂と結婚するために努力をしている。お似合いの二人だと思うし、結婚したら良い夫婦になれるだろう。
――諦めるんだ。
二階堂が玄関を出て行く。せっかく来てくれたのにすぐ帰ってしまう。
パタンと音を立ててドアが閉まった。
涙は出なかった。喉は震えた。
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