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悪い波1
翌日から、彩人と二階堂は普通の上司と部下に戻った。
昼食を二階堂と一緒に摂ることもなくなった。というより、彼を社内でみかけなくなった。周りに聞いてみると、本来二階堂の仕事は外部との折衝が多く、デスクワークで会社にいることは滅多になかったらしい。ここ最近、おかしいと感じるほど社内にいた、とのことだった。
次の週は、仕事ではワクワクすることが多かった。発注していた『紙もの。』の商品(サンプル)が続々と会社に送られてきたからだ。
彩人が企画を通した『ハシビロくん』の文具一式(付箋、ポチ袋、やることメモ)と、キャラクターデザインを担当した『ブサカワ動物シリーズ』だ。このシリーズは、あまり知名度がない動物をピックアップしている。アオアシカツオドリや、オカピなどなど。
ブサカワがメインだが、キモカワもあったりする。
「月島くん、担当しアイテムは自分でインスタに上げてね」
辻井に言われ、彩人は大きい声で返事をした。
フェリテではカタログごとにインスタのアカウントがあるのだ。彩人は『紙もの。』のアカウントでインスタにログインし、六階のスタジオで商品を撮り、画像をアップロードした。
これで『いいね!』が沢山つけば幸先の良いスタートとなる。
カタログに載せるサンプルが全部揃ったら、プロのカメラマンが一気に写真を撮る。それをカタログ作成グループが、テキストと組み合わせる編集を行い、印刷会社に入稿する。
「早くカタログできないかなあ」
つい声に出してしまいながら、彩人はUPしたばかりのインスタを頻繁にチェックするのだった。
彩人に悪い波がやってきたのは、それから二週間後だった。
カタログ原稿の入稿が終わって、『紙もの。』グループの忙しさが一段落した頃。
彩人は昼休み中、ふと思いついて、スマホで後藤のインスタをチェックすることにした。ずいぶん前に後藤から、彩人が施したヘナタトゥーの画像をインスタに上げたとメールで連絡があったのだ。彩人はあえてそれを見ていなかったのだが(彼とセックスしたことを思い出すのが嫌で)、気持ちも落ちついてきたので見てやることにしたのだ。
最新のエントリーは、『OKINI』で売っている新作商品の写真だった。少しスクロールすると、ハシビロコウを背負った後ろ姿の写真が表示される。後藤の日焼けした肌、きっちりついた筋肉のせいか、ハシビロコウがイキイキしていて、今にも飛び立ちそうに見えた。
更にスクロールした時だった。彩人が描いたステンシルアートの写真も映し出された。ブランコに乗った少女たちと、それを見ていない母親たちの図だ。
『いいね!』が五百を超えている。
――けっこう反響あったんだな。
嬉しくなって、コメント欄に目を通した。
『バンクシーでしょこれ』
『いや、全然似てないよ。バンクシーに失礼』
『は? バンクシーよりずっと巧いよこれ。プロが描いてるって』
何やらコメント欄で、激しい討論が行われている模様。
――俺が描いたんだけどね。
ちょっと得意になっていたときだった。
「あ、月島くんもこのニュース気になってるの?」
隣の田中が、彩人のスマホを覗きながら聞いてきた。
「へ? ニュースって?」
「あれ、知らない? 一昨日だったかな、都内の公園でバンクシーっぽい落書きが発見されて、ちょっとした騒ぎになってるんだよ」
「へえ、そうなんですか」
「へえ、ってさ……。いま月島くんが見ているのも、バンクシーじゃないかって言われてるんだよ」
「は?」
「テレビでその絵も紹介されてたよ。バンクシーかどうか夜のニュースで検証してた。評論家が可能性は五分五分とか言ってたけど」
――なんだよそれ……。
「本当にお忍びで日本に来てたりして。だったら凄いね!」
――いや、これは絶対違うから。
彩人は今一度、後藤がUPした写真を見た。彼のアカウントの横に短いコメントが載っている。
『なんか落書きされてるけどカッコいいから許す』
――なんだよこれ……!
これではまるで落書きされた被害者のコメントではないか。彩人に依頼して描かせたものだというのに。
――自分の記事に注目してほしくて、こんな嘘を。
怒りが沸々と込み上げてきた。彩人は冤罪をかけられた気分になった。
彩人は席を立った。
空いている会議室に入り、彩人は後藤に電話をした。
「おお月島、久しぶり。ていうか、こっちからメールしても全然返事ないし。やっぱ怒ってた?」
後藤の能天気な声に、怒り心頭になる。
「お前なあ、あのインスタのコメントなんなんだよ。『落書きされてるけど許す』って。わけわかんねえよ」
「あ、バレた? でもそのお陰で、お前の絵が注目されてるじゃん。昨日、テレビで放送されたぞ」
「ふざけんな。迷惑だ。早く訂正しろよ!」
とうとう怒鳴った。
「怒るなよ。お前に迷惑はかかってないだろ。俺が警察に被害届出さない限り、何も怖いもんはないだろ。絶対出さないし。安心しろって」
「逮捕される、されないじゃないんだよ。俺が気分悪いんだよ。頼まれて描いたのに落書きみたいな扱いされて。お前は自分が注目されたいから嘘ついたんだろ。最悪だな」
彩人が一気に言うと、後藤が黙った。
「後藤?」
「分かってないのはお前だろ。俺はお前の絵を沢山の人に見せたかったんだ。すげえカッコいいから」
「俺は沢山の人に見られなくて良い。趣味でやってんだから」
「趣味じゃ勿体ないって言ってんだよ。才能あるじゃん。なんで表に出ようとしないんだよ」
また才能だ。何度聞かされただろう。
本当に、本当に、ウンザリだ。
「とにかくインスタのコメント、削除しろよ」
まだ何か後藤が言っていたが、彩人は電話を切った。
その日は眠りにつくまで後藤に憤っていたが、翌日の朝は怒りが持続しなかった。
――まあいいか。被害届出さないって言ってたし。バンクシー騒ぎも一時的なもんだし。
彩人は楽観的に考えることにした。が、事態は思わぬ方向に進んだ。
出社してすぐに、一度も話したことがない企画部長に名指しで呼ばれた。
彼と一緒に小会議室に入ると、すぐに落書き事件の話題を切り出された。
「きみがこれを描いたって言う噂が社内で流れているんだけど」
そういってiPadを見せられる。そこには後藤の店の壁に描いた自分の作品が映し出されている。
彩人は素直に肯定した。否定して嘘がバレるより本当のことを言った方が面倒なことにならないと思った。それに自分には非がないのだ。
「これは勝手に落書きしたのか」
「いえ、これは友人に頼まれて、友人の敷地で描いたものです」
彩人はしっかりと答えた。これで裏を取りたいと言われたら、後藤に電話をして証言してもらえばいい。
「それなら良いんだけどね。あと、このサイトに載ってるストリートアートで、君が手掛けているものはあるのか」
予想外の質問だった。彩人は恐る恐る、『バンクシーかもしれない? 落書き検証サイト』
に紹介されているストリートアートを一件一件見ていった。
果たして、自分が過去に描いた作品が掲載されていた。大学の時に手掛けた一作。
バッファローがギターを弾いている図だ。寂れた公園のコンクリートの壁に、スプレーで描いたものだった。
「――これは俺が描きました」
「そうか。これも誰かに依頼されて描いたのか?」
企画部長が鋭い目で尋ねてくる。
「いえ……これは許可を取らずに描きました」
「うーん、そうか」
ここに来て、企画部長の眉間が険しくなった。
「許可なしで描いたってことは『落書き』なんだよ。『落書き』は迷惑行為だ。人としてやってはいけないことだと思うんだけど、その辺はどう考えてる?」
「――迷惑行為だと思います。今更ですけど、この公園の持ち主には申し訳ないことをしたと思っています」
「そうか。まともな答えで安心した。『落書きじゃありません、アートです』なんて言われたら困っちゃうからね」
企画部長がカラカラと笑った。
とりあえず危機は脱した。企画部長には「これからは無許可でやらないように」と軽く注意されるだけで終わった。
さっきの詰問の場面では生きた心地がしなかったが、もう大丈夫だ。
彩人は足取り軽く、『紙もの。』の島に戻った。
――でも、なんで俺が落書きしたって噂が立ったんだろう?
ステンシルアートをやっている現場を見られたか、もしくは、スケッチブックに描いていた下絵を見られたか。
――二階堂さんに見られたことはあった。
コルビュジエの展覧会で会ったときだ。昼食を食べたときに勝手にスケッチブックを見られた。
二階堂が企画部長に密告したのだろうか。
――それはないよな。そういうことしない人だ。じゃあ誰が?
彩人は記憶を遡った。スケッチブックはいつも会社に持ってきている。通常デイバッグに入れて、一番下の引き出しにしまっているが、たまにデスクで開くことがある。そのまま離席したことがあったかもしれない。
他にも思い当たることがあった。
四月の花見に行った時だ。飲みの席で、彩人は桜の写生をしていた。ブルーシートに置いたままトイレに行ったこともあった。その時に、居合わせたメンバーに見られた可能性はある。犯人の特定は難しい。
――まあいいか。大事にはならなかったし。
彩人は犯人捜しを辞めた。
だが、悪い波はこれでは収まらなかった。
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