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キス
それからの彩人は、また不規則な生活を送るようになった。
職を失って四日目。水曜日の夜。
三日ぶりのシャワーを浴びて、全裸で床に寝転がった。体を拭かずに出てきたから、フローリングは普通に濡れたが、すぐに乾くだろう。彩人は気にしなかった。
――仕事を探さないと。
何度もそう思うのに、体に力が入らない。ここ数日、右手に持ったものは絵筆とシャワーヘッドだけだった。覚えているのはそれだけ。
食べていない。水は飲んでいる。
部屋にこもって絵ばかりかいているので、お腹は空かない。
自分の手首をぼんやり見る。また痩せたかもしれない。でもどうでもいい。それがどうした。
うるさく言ってくる人はいない。
這い上がろうとしたのに、また失敗した。
床にはカンバスが積んである。描いた枚数は二枚。どちらも抽象画。寒色しか使っていない。描いていた時の記憶がなくて、後から気がついた。マジマジと自分の作品を見たとき、底なし沼みたいだ、と思った。
社会人として真っ当に生きていけないのなら、このまま好きな絵だけを描いて死のうか。それはそれで幸せかもしれない。
彩人は自分のしょうもなさに絶望していた。
この部屋は外部から遮断されている。家の電話はないし、スマホの電源も切った。玄関のドアに鍵もかけている。
――疲れた。
彩人がまた微睡み始めたときだった。インターホンが鳴った。彩人が無視していると、また鳴った。それでも無視を決め込むと、鍵を解錠する音がした。
――え? なんで?
合鍵は誰にも渡していない。管理人か大家だろうか。
慌てて起き上がろうとしたが、床の水が滑って、彩人はまた床に仰向けになった。
ドアを開けて中に入って来たのは、二階堂だった。
彩人の喉が、勝手にヒュッと鳴った。
男は後ろ手に玄関ドアの鍵を閉めた。
「な……なんであんたがここに。鍵もどうして」
もう一度起き上がろうとして、頭がふらついた。三日間食事をしていないせいか。
「また食ってないんだろ。顔色が悪い。痩せた」
二階堂がネクタイを緩めながら嘆息し、彩人の元にやってくる。床と彩人の背中の間に手を差し込み、ぐっと持ち上げられる。上半身が浮いた。そのまま横抱きにされ、ベッドに落とされた。
彩人は掛布団を頭まで引っ張り、光を遮断した。
「鍵なんで持ってんだよ」
自分の声が布団に吸い取られていく。それでも二階堂には聞こえたようだ。
「初めてこの部屋に来た日、スペアを作った」
「なに勝手なことしてんだよ。犯罪だろそれ!」
頭がカッとなり、布団から顔を出した。
二階堂はベッド脇に立って、彩人を見下ろしていた。
「帰れよ。あんたと俺はもう何の関係もない。俺は会社辞めたんだから」
土曜日に会議室で。企画部長に、正社員の登用はできないと。もっと自分にあった仕事を探した方が良い、とも。彩人は操られたように「辞めます」と言っていた。
「鍵、ここに置いて帰れよ」
怒鳴りたいのにできない。声を出す力も出ない。
「お前を放っておけない」
二階堂の手が、彩人の髪にかかる。大きな手のひらが頬を撫でた。腰にずくんと、痺れが走った。
「ほっとけよ。もう俺と関わるな」
声が掠れた。彼の顔が、キスする寸前の距離まで近づいてくる。彼が口を開いた。吐息が肌に触れた。
「放っておけない」
更に強い声で二階堂が言う。
「――じゃあ、俺の望みを全部聞けよ」
久しぶりの親密な接触に、彩人の体は欲望に支配されていく。
「ああ、何でも聞く。お前が規則正しい生活をして絵を描くなら」
二階堂が目を細めた。彩人の望みを知っているように、口の端を軽く上げて。
「慰めてほしい……じゃないと、絵が描けない」
ずるい科白だということは、分かっている。
彩人は二階堂の顔を両手で挟んだ。そのまま顔を近づける。
己の唇が、好きな男のそれに重なった瞬間、彩人の目からは涙が零れた。
――こんなの間違っている。
誤った行動をしている。自覚があるのに、止められなかった。
二階堂が抵抗しないから、それどころか、キスに応じてくるから、余計に――。
軽い接触を繰り返したのち、彩人は口を軽く開いた。すぐに二階堂の舌が入ってきた。中を探るように、優しくかき回してくる。
「あ……」
キスで声が出るなんて、今まで一度もなかった。上顎と歯茎の裏をねっとりと舐めあげられ、肩が震える。
思考を麻痺させる、甘い毒のようなキスだった。
舌を絡め合わせながら、彩人は二階堂の背中に腕を回した。
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