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香苗の正体
翌日の午後五時半、彩人は重い足取りでアパートまで歩いていた。
――男で事務職希望って珍しいよね。
彩人の面接をした人事の男は、あからさまだった。
ニヤニヤ笑いながら、彩人の顔、体を舐めるように見て「どこか悪いの?」とも聞いてきた。
男女問わず、の募集要項を読んで彩人は問い合わせの電話をした。自分が男だということも伝えたうえで、面接の予約を取ったのだ。
――あれはただの冷やかしだ。
最初から男の事務員を取る気はなかったのだ。彩人の前にも、面接を受けている女性がいたが、その人は彩人よりも時間が長かった。
彩人の出した履歴書をちらっと見ただけで質疑応答に入り、それも五分もかからずに終わってしまった。
一着しかないスーツをクリーニングに出して、ワイシャツに丁寧にアイロンをかけ、面接に挑んだのに。無駄骨に終わった。
道に転がっている小石を蹴り、八つ当たりをしたときだった。後ろから声をかけられた。
いつものようにたたたっと音を立てて、香苗が前に回ってくる。のぞき込むように彩人の顔を見た。
「つっきーのスーツ姿初めて見た。カッコいいね」
いつものバカっぽい喋り。朗らかな声――香苗の明るさに救われる思いだった。
こういう明るさは、二階堂にはないものだった。
「ん? なんか元気ない?」
マスカラをたっぷりつけた睫毛が、ぱちぱちと上下する。
「別に……」
そのまま彼女を避けて帰ろうとすると、「ねえねえたまには飲もうよ。ね、たまには息抜きも大事。私が奢るから」。
落ち込んでいるときに、こういう誘いはずるいと思う。同性の二階堂にははけない弱音も、香苗には言いたくなってしまった。
「じゃあ、俺の家で飲むか。ほんとに奢ってくれるの」
「女に二言はないって」
「それを言うなら男だろ」
「気にしない気にしない。じゃあ、ビール持ってつっきーの部屋に行くね」
たまにはいいよな、と自分に言い聞かせる。密室で迫られたとしても香苗は女だ。自分が断ればセックスしようとしたってできはしない。圧倒的に彩人の方が力が強い。
部屋に戻りスーツから部屋着に着替え、冷蔵庫を覗いてツマミになりそうなものを探していると、インターホンが鳴った。
「開いてるよ」
彩人がドアに向かって言うと、すぐに香苗がドアを開け中に入って来た。彼女は紺色のビニール袋を重そうに持ちながら、三和土からこちらにやってくる。
二人のささやかな宴は思ったよりも長く続いた。
彩人は三時間で缶ビールを三本空けた。時刻は八時半過ぎ。そろそろお開きにしないと、二階堂が帰ってきてしまう。
「香苗、そろそろ帰って。気分転換できた。付き合ってくれてありがとう」
香苗と飲むのは楽しかった。酒が入ると、くだらない話でちゃんと笑える。
「えーもっと話したい」
香苗がブスくれて言う。香苗も楽しんでくれているようだ。
「もう少ししたら帰ってくるんだよ。付き合ってる人が」
彩人は正直に話した。今、はっきり香苗に告げるときなのだと思った。
「すごく好きな人と付き合ってるんだ。だから、香苗とは今後体の関係は持てないし、香苗と付き合う事もないから」
我ながら不遜な物言いだとは思うが、それで香苗の気持ちが自分から離れたら良い。
「――好きな人って、毎日ここに来る男の人?」
香苗が唇を震わせて確認を取ってくる。
――ああ、とっくにバレてたんだな。
あの時の声が聞こえていたのかもしれない。このアパートは壁が薄いから。
「そうだよ。いつも来る男」
彩人が肯定すると、香苗は「やっぱり」と呟いた。
「つっきーは前から、男としてたもんね」
「え?」
思わず聞き返していた。前から、とは一体どういうことなのか。
「私の兄の愛人だったじゃない?」
香苗がにっこり笑った。ぞっとするほど、目が笑ってない笑顔だった。
彩人は香苗の顔を改めて見た。でも、三年前に会ったときの面影は一切なかった。
体型も違うし、顔の印象も違う。あのとき彼女は太っていて、化粧もしていなくて何の特徴もない、つまらない顔だった。
でも今は、中肉で腰にくびれもあって、顔も綺麗な方だ。化粧だけでこんなにも変わるものなのか。
「つっきーの大学に行ったとき、私太ってたから。兄みたいに摂食障害にならないように、時間をかけてダイエットしたの。だから、つっきーに会いにくるのが遅くなっちゃった。どうしても痩せてから会いたかったから」
「なんで俺に会おうなんて」
あの男の妹は、彩人を憎んでいたはずだ。だってあの男を病気にした根源なのだから。
「私も不思議だった。なんでつっきーに会いたいのか。でもどうしようもないの。あの日会ったときから、ずっとツッキーのことばっかり頭の中にあって、会いたくて仕方なかった。一目惚れだったんだと思う。つっきーにあんなに酷いことしたのに。ごめんね。あのときは私、どうかしてたんだよ。兄が勝手に病気になっただけなのに。兄がバカだったんだよ。つっきーを無理やり愛人にして。金の切れ目が縁の切れ目なのにつっきーに追いすがって」
「――お兄さんは今、元気なんですか」
急に敬語になってしまう。香苗が急に遠い存在になった。
「まあ元気なんじゃない? 一応働いてるし。お給料が少なくて実家暮らしだけど。今は健康な方だよ。痩せてるけど、一時期の骸骨よりはマシ。でも、食べすぎたときは家族に隠れて吐いてるみたい。完璧には治らないみたいだよ、この病気」
香苗があっけらかんと話し続ける。その不自然なほど屈託のない態度に、彩人は恐れを覚えた。
「そろそろ帰ってくれないかな」
「つっきーの彼氏、二階堂さんっていうんだよね。ここのアパート壁が薄いから、けっこうつっきーたちの会話聞こえちゃうんだよ。壁に耳つけてるとね。つっきーは二階堂さんのこと好きなんだろうけど、あっちはどうなのかな。『規則正しい生活をして絵を描いてくれればなんでもする』って言われてたよね。なんかその話聞いてたら、つっきーが可哀そうになっちゃったんだけど」
彩人は呆然としながら、香苗の話を聞いていた。相槌なんてできる余裕はなかった。
――毎晩、壁に耳をつけて聞いてたのか。
首筋のあたりがゾクリとした。
「つっきー自身じゃなくて、つっきーの絵が目的って感じで。そんな人といて、つっきーは幸せになれるのかな」
思いがけず痛い所を突かれた。この女はバカな振りをしていて実は聡いのか。どちらにせよ頭がおかしい。
「香苗、帰ってくれ」
強い声で言いきると、香苗がしゅんとなった。
「わかった」
「もう二度と香苗とは会いたくない。香苗が引っ越さないなら俺が引っ越すから」
「そんな、そこまで私のこと嫌?」
「嫌だ」
きっぱり言うと、香苗がまた「わかった」と言った。
「じゃあ最後のお願い。私のせ、い、き、の絵、私にちょうだい。色は塗ってなくても良いから。良い思い出として取っておきたいんだ。くれたらすぐに帰るから」
両手を拝むようにされて、彩人は承諾した。こっちとしても彼女をモデルにした絵を持っていたくない。
彩人は急いで棚にあるスケッチブックを手に取った。が、それには香苗の絵が入っていなかった。他に何冊もある。彩人が手間取っていると、背後で風が生まれる気配がした。スケッチブックから顔を上げたとき、頭に衝撃が走った。
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