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彩人の決意
脳内で銅鑼が鳴り響き、視界がぐるぐる回った。こめかみから肩まで痺れがある。
彩人は目を瞑って、何度も襲ってくる眩暈に耐えた。脚もぐらつくので、棚の上に手を置いた。そんな状態のときに、また硬い何かで、膝カックンされ、反り返ったあとに床に顔から倒れ込んだ。
「つっきーごめんね」
謝りながらも、香苗は躊躇なく彩人の左手をしめ縄で縛り、縄の端をベッドの脚に括り付けた。彩人は、左手の自由を奪われた。
「香苗、何してんだよっ……」
まだ頭部、頸部の痺れはあったが、意識はしっかりしていた。
「つっきーはつっきー自身を愛してくれる人を求めてるんじゃない? だからいつも寂しそうな目をしてるんだよね。私は二階堂さんとは違う。つっきーが絵を描いても、描かなくても好きだから。つっきーが絵をかけなくなってもずっと好きでい続けるから」
熱烈な愛の科白なのだろうが、彩人には迷惑以外の何者でもなかった。二階堂に言われたら喜ぶが。
「つっきー……黙ってるってことは、やっぱり行動で証明しろってことだよね? わかった。ちゃんと証明するね」
「証明って、何するんだよ」
嫌な予感しかない。心臓がどくどくと鳴り始め、こめかみにジワリと汗が浮かぶ。
「つっきーっの手にこれを落とします。つっきーが右手を使えなくなっても、私がちゃんとお世話します」
「何いって……!」
途中で彩人は絶句した。
うつ伏せにされていた体を横向きにして、首を上げる。と、立っている香苗が、両手で鉄アレイを持って、彩人の床についている手を目掛けて落とそうとしていた。鉄アレイは大きかった。五キロありそうだ。
彩人は咄嗟に、右手を自分の体の下に隠そうとしたが、香苗の足に阻まれた。彼女が彩人の肩から上腕を踏みつけて、体重をかけてきたのだ。右腕を床に広げさせられた状態で固定されたのだ。
「やめろ! 絵が描けなくなったら生きてる意味なんかない!」
喉が痛くなるぐらい彩人は叫んでいた。
――そうだ、俺、それぐらい俺は絵を描くことしか考えてなくて、絵を描くことはライフワークになっていて。
絵が描けなくなるなら死んでほうがマシだと思っている。
――俺には絵しかないんだ。
趣味で良い――何度も自分の口から出てきた科白。それは決して嘘じゃない。だってプロになったら、描きたい絵ではなく、売れる絵を描かなくてはならなくなる。
彩人は自分の描きたい絵を描きたかったし、中国市場向けに赤を基調にした絵だとか、家庭の壁に飾るための絵だとか、需要に合わせて描くなんてつまらないと思っていた。
父のように絵が売れなくて苦しむのも嫌だ。
――だけどそれって、自分の苦手な課題や、困難に直面することから逃げているだけなんじゃないのか。
「つっきー、そろそろ落とすね」
「やめろ! 本当に俺は、絵が描けなくなったら生きていけない」
「うんうん、わかるよ分かる。つっきー、絵を描くの好きだもんね。でもね、これやんないと、私の愛の証明ができないから。我慢してねつっきー」
彩人がまた「やめろ」と叫んだときだった。ガチャガチャと鍵を開ける音がした。次いでドアがを開ける音が部屋に響いた。
「何やってるんだ」
肩越しに、玄関から土足で駆けてくる二階堂が見えた。
香苗の意識が二階堂の方に向かった。彩人は無我夢中で腕を振り、香苗の足を払おうとした。
「じっとしててよ!」
香苗が怒鳴って、鉄アレイを手から離した。彩人が息で悲鳴を上げたとき、二階堂が走り込んできて彩人の背中に覆いかぶさった。
彩人の右手に彼の右手が重なり位置を左に寄せた瞬間、鉄の塊が二階堂の右手の一センチ横に音を立てて落ちた。間一髪で避けられたのだ。
二階堂がすぐに体を起こして、彩人に「大丈夫か?」と尋ねてくる。
「大丈夫。あんたが助けてくれたし」
彩人の心臓は、まだどくどくと鳴っている。
二階堂が立ちあがり、まだその場で突っ立っている香苗と向き合った。
「あなたのしたことは犯罪です。今から警察を呼びます」
彼の声は淡々としていたが、怒りでそうなっていることは香苗にも分かったようだ。
「すみません、お酒飲みすぎちゃって悪乗りしたっていうか。ほんとごめんなさい」
香苗は頭を何度も下げたあと、「つっきーごめんね。またね」と言い、床に落ちた鉄アレイを拾って玄関まで走っていった。そのまま外に出たと思いきや、捨て台詞を残していくことも忘れなかった。
「二階堂さん、つっきーってね、私の兄の愛人やってたんですよ。三年間も!」
香苗が出て行ったあと、二階堂が開口一番彩人に言ったことは「どこか殴られてないか」だった。彩人が頭を叩かれたことを話すと、彼はスマホで近くの救急病院を調べ始めた。
「頭を鉄アレイで叩かれたんだろ? 病院に行った方が良いんじゃないのか」
「大丈夫。もう全然痛くないし」
「一応、明日一日、安静にしてろよ。吐き気や頭痛があったら、病院に行け」
「分かったって」
「タクシー呼ぶから、一緒に俺のマンションに行こう」
「え、何で」
「ここにいたら、また隣の女がやってくるかもしれないだろ」
そうかもしれない。二階堂のマンションに避難した方が良いだろう。
「じゃあお言葉に甘えようかな」
「そうだよ、甘えろよ。ずっと居ていいからな」
二階堂が嬉しそうに笑った。
――ずっと、って具体的にいつまでなんだろう。
分からないけれど。本来こんな甘いことを言う男じゃないのに、彩人に言ってくれた。それが嬉しい。
彼は出会った頃と変わっている。言動が――そして多分、心の在り方も。
彩人が変わったように。
「二階堂さん、俺、いまさらだけど画家を目指そうと思ってるんだ」
彩人が告げたとたん、二階堂の息を吸い込む音がした。彼は目を見開いていた。
「本当か? それ」
彼は驚いているようだ。当たり前かもしれない。
今までさんざん「趣味で良い」と言ってきたのだ。自分でも驚くほど、意識の変化が起こっている。
「本当だよ。俺には絵しかないってわかったから」
もう自分を偽るのは辞めようと思った。「趣味」を免罪符にして逃げることも。
「そうか」
二階堂が破顔した。本当に嬉しそうに。
「彩人、好きだ」
――え、なんで今?
親密な関係になっても、一度も言ってくれなかったのに、なぜ。
少し不思議だったが、歓喜の波が襲ってきて、彩人は考えることを放棄した。
「もう一回言って」
「好きだ」
惜しげもなく言ってくれる。本当に、二階堂らしくない。
「俺も好きだ」
彩人は二階堂の首に腕を回した。すると、彼も彩人の背中を抱いてくれる。
唐突に、相思相愛なのかもしれない、という予感が生まれた。
だから彼に聞こうと思った。
「早乙女さんとは別れたんですか」
それでも緊張して、声が尻すぼみになった。
「別れてるに決まってるだろ」
二階堂が苦笑した。何を今さら、という風に。
「いつ?」
「五月下旬。そのあとあいつが、お前に色々言ったんだろ? ごめんな、嫌な思いさせた」
二階堂が珍しく謝ってくる。
――今日の二階堂さんは変だ。
それとも、もともとある一面を、彩人にだけ見せてくれているのだろうか。それならば舞い上がってしまうほど嬉しい。
「俺の過去は気にならないの? 愛人のこととか」
「気にならないっていったらウソになる。でも今は、俺しかお前にキスできない。そうだろ?」
「その通り」
どちらからともなく顔を近づけ、頬をこすり合わせたあと、キスを始める。
ついばむようなキスを繰り返して、すぐにそれでは物足りなくなって、深い深いキスを仕掛け合う。
チロチロと舌の側面を舐められ、唇の裏を甘噛みされ、気持ちが良くて頭がぼうっとしてしまう。
「彩人、セックスするぞ」
彩人に有無を言わせないその強気な口調は、二階堂らしいそれだった。
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