1324人が本棚に入れています
本棚に追加
彩人のミュージアム
二階堂のマンションの間取りは2LDKだった。一人暮らしだったにしては、すいぶん部屋数が多いと感じる。二階堂的にはそれが普通だったようだが。
二つの居室のうち、一つは寝室、もう一つは書斎として使っていたそうだ。二人で暮らすようになってからは、寝室を彩人のアトリエに、書斎を彩人の絵を保管する倉庫として使うようになった。
寝る場所はリビングルームだ。そこにセミダブルベッドを置いている。彩人は自分が恵まれすぎていると恐縮してしまうほどだったが、二階堂は「手狭になったな。もっと広い部屋を借りるか」と言っている。暇なときは物件を探しているようだ。
二階堂がどれだけ貯蓄しているのかは知らないが、あまり自分にお金を落としてほしくない。心苦しい。早く自分も絵で稼げるようになりたい――そう思っている。
二階堂が慌ただしく搬入の準備をして家を出て行った。彩人は全部の部屋に掃除機をかけてアトリエに向かい、制作の続きをしようとした。と、そのとき、隣のリビングから二階堂のスマホの音が鳴り響いた。
「持って行くの忘れたな」
彼にしては珍しい。忘れ物をするなんて。
呼び出し音が十回以上鳴っても彩人は放っておいた。二階堂の電話なのだ。出たらまずい。
だが、数分置いて、また電話が鳴った。
――何か緊急の連絡かな。
だったら出た方が良いのだろうか。
彩人は暫し逡巡したあと、リビングに向かい、二階堂のスマホを手に取った。
発信元は『室生』だった。フェリテの『サニーデイ』グループに所属している管理職の女性。彩人は懐かしくなった。
――ヘナタトゥーのステンシルシート、どうなったかな。
彩人は退職したあと、自分が手掛けた商品の評判をあえて調べていなかった。
通話ボタンを押し、スマホを耳に当てると、立て板に水のごとく辻井が話し出した。
「二階堂さん? 休日にごめんなさい。今日出社して昨日届いた『LUCY』のカタログを見てたんだけど、乱丁を見つけちゃって。他部署のことなんだけど、一応報告しようと思って。対応は週明けで良いかな。出版社も休みだし」
ようやく話が途切れたので、彩人は控えめに「すみません、俺、二階堂さんじゃありません」と告げた。
「え? 私、番号間違えた?」
「いえ、二階堂さんの電話です。彼は電話を忘れて外出してしまって。帰ってくるのは一時間後ぐらいなんですけど」
「ああ、そうなんですか。――って、どこかで聞いた声のような――」
考え込むような声で室生が呟いた。
「あ、俺、月島です。ご無沙汰してます」
彩人は名乗った。自分の声を覚えていてくれたのが素直に嬉しい。それに、二階堂以外との話をするのも新鮮で良い。
「ええ? 月島くん? なんで?」
「今日たまたま遊びに来てたんです」
「そうなの! 二階堂さんが部屋に他人を呼ぶんだ。意外。でも月島くんのこと気に入ってたから納得ね。どう? 元気?」
会社で仕事をしているときよりもフランクな物言いだ。つい彩人は会話を続けたくなる。
「元気です。辞める際は、挨拶できなくて申し訳なかったです」
「いいのよ、そんなの。月島くんには同情する声も多いのよ。田畑さんに盗作されたのはあなたの方なのに、あなたが責任取って辞めたんだから。月島くんもね、甘いところがあったけど、田畑さんが一番罪が重いのよね。クリエイターとして、してはいけないことをしたんだから」
途中から憤ったような声になる。
「あと、正社員にしてあげられなくてごめんね。人事に掛け合ったんだけど、二階堂さんが難色を示して」
――え? ナンショク?
言われた意味が最初は分からなかった。
――二階堂さんが、ナンショク。
頭の中でそのフレーズが渦巻いた。
「うちの会社、正社員はけっこう大変でしょ。残業するのは当たり前だし、休日出勤もしなくちゃ仕事が追い付かない感じだし。『月島はまだアルバイトの方が良い』って。二階堂さんはあなたの体調を気にしていたようだけど」
「そう、ですか」
スマホを持つ手が、先ほどより冷えている気がした。それに、力が入らない。
「あの、俺がデザインしたステンシルシート、どうなりました?」
彩人は話題を変えた。これ以上自分の退職に関する話をしたくなかった。
「好評よ。この前コスメ雑誌に取り上げられたのよ。ハシビロくんも売れてるわよ。リピーターが付いてる。本当にうちの会社は惜しいことしたわよ。月島くんを辞めさせちゃうんだから」
話題は二階堂本人のことになった。
「早乙女さんと別れたって話だけど、どうなのかしら。知ってる? 今でも社内で一緒にいるところ見るんだけど」
――そうなんだ。部署は違うのに。
秘書課と企画グループ。どういう接点があるのだろう。
彩人の心は沈んでいった。電話に出なければよかったと後悔した。
彩人はアトリエ部屋に入って、絵を描こうとした。だけど集中できない。気が散る。
前に住んでいたアパートから移してきた棚を見る。スケッチブックが詰まっている。
彩人は適当に一冊を選んで、ページをぱらぱらとめくった。後藤の店の壁に描いたステンシルアートの下絵もあった。
――誰がこれを見たんだろう。誰が企画部長に言ったんだろう。
ぺージの右下には『3/30』という日付。
彩人はスケッチしたあと、必ず日付を付けている。日記の代わりにもなるからだ。
残りのページは少なく、すぐに目を通し終わった。最後のページの日付は『4/2』。
――えっ? 四月二日?
彩人は慌てて、壁にかけてあるカレンダーを手に取った。九月から四月に戻す。
四月二日は火曜日だった。何もメモが書かれていない。書かれているのは四月七日だった。
『花見 十一時から』
――花見のときは、新しいスケッチブックだったんだ。
つまり、花見のときにステンシルアートの下絵を見られたわけではなかった。
――二階堂さんにしか見られてなかったってことか?
職場にもスケッチブックは持って行っていた。でも、冷静に考えて、仕事中に勝手に他人の机の、他人のノートを見る人がどれだけいるのだろうか。
――二階堂さんは、バンクシー似の落書き騒ぎのとき、俺の下絵のことを何も言ってこなかった。
ニュースでそこそこ取り上げられた事件だったのに。彼が全く知らなかったとは考えづらい。彩人の下絵を見ていたのだし、問いただしてくるのが普通のはずなのに。
――あえて聞いてこなかった? その代わり、企画部長に密告した?
彼に対する疑惑で、頭がいっぱいになる。
――二階堂さんは俺を正社員にしたくなかった。だから俺の評価を落とそうとしたのかも。もしかしたら、『オカピ』の件も庇ってくれなかったのは――。
そこまで考えが至り、彩人は首を横に振った。
これ以上考えたくない。
彩人はアトリエの椅子に座った。イーゼルに制作途中のカンバスを置き、続きから描き始める。
コンクール用は、今日はやめておく。
だって今日は、二階堂の誕生日だ。
ギリギリになってしまったが、なんとか間に合うだろう。彼に贈る絵が。
カンバスには一点透視図法を駆使した大きなミュージアムを描いている。ミュージアム。彩人の頭の中にしかないオリジナルの展示空間だ。そこには彫刻から油彩、ポップアート、だまし絵が、壁や天井、階段や窓に置かれている。その配置は一見、規則性がないように見えて、ある。
頭の中に浮かぶ夢のミュージアム、それを観覧する架空の人々を鮮明に再生していく。ときには大胆なタッチで、ときには繊細に。色は青を基調にする。窓から見える空から日差しを受けてフロアがまばゆい光を放っている。
彩人は夢中で描いた。時間を忘れるほどに。
描き終えた絵を入念にチェックしていると、ドアを軽くノックされた。ドアが開く。
「彩人、そろそろ夕飯だぞ」
Tシャツにジーンズ――ラフな格好をした二階堂に声をかけられる。
「わかった」
彩人はカンバスを持って、二階堂の後をついていく。
「二階堂さん、スマホ忘れて出かけただろ。しつこくかかってくるから、室生さんの電話出たよ」
一応報告すると、二階堂は「あ――悪い。ありがとう」と返事をしてきた。とくに不自然な態度は取ってこない。
リビングに着いた当たりで、彩人は二階堂の前に立って、カンバスを見せた。
とたん、二階堂の目が驚いたように見開かれ、それから、彼の口から感嘆のため息が吐かれた。
「――凄いな」
彼はそれしか言わなかった。評論的なことは何も。
「二階堂さんに贈ろうと思って描いたんだ。あんただけに見てほしくて。――これは俺の中だけのミュージアムだから」
――二階堂さんに出会えて、好きになったから描けたんだ。
彼とバッタリ会ったのは、コルビュジエの展覧会だった。
彼と初めて会ったのは、壁画があるカフェだった。
彩人にとって、ミュージアムは以前からお気に入りの場所だった。でも、二階堂に出会ってからは特別な場所になった。彼と繋がれる場所だから。
「彩人、ありがとう」
ため息のような声で二階堂が言った。
彼は一度、その絵を持って保管部屋に向かった。すぐに戻ってきて、佇んだままの彩人を強く抱きしめてくる。
「彩人、ありがとう」
喜びを噛み締めているような彼の声音に、彩人は「大げさだよ」と笑った。
――いくらでも描くのに。あんたのために。
二人は夕食を後にして、リビングのベッドで抱き合った。
最初のコメントを投稿しよう!