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蜜月の終焉
二人の関係はうまくいっていた。平日、彩人は二階堂のマンションで負担にならない程度の家事をこなし、残った時間は絵を描いて過ごす。二階堂は仕事をして夜に帰ってくる。
ただ最近、二階堂は彩人の絵の搬入で、一人で外出することが多くなった。彩人はコンクール向け、展示向けの絵を描く量が増えて、忙しくなってきた。
休日、二人で出かけることもなくなったし、家にこもって二人の時間を密に過ごすこともなかなかできなくなった。
そんなとき、二階堂が「春になったらニューヨークに行こう」とベッドの上で囁いてきた。性交後の、気だるく色っぽい声で。
「え? 本当?」
本当に行けたら嬉しい。彩人は以前からニューヨークに行ってみたいと思っていた。そこにはMoMA(ニューヨーク近代美術館)があるからだ。
「あ、でも俺、パスポート持ってない」
彩人は海外に出たことが一度もなかったのだ。
「じゃあ今度、パスポートを取りに行こう。書類は俺が準備するから」
「そんな、いいよ。自分のことは自分でしないと」
同棲を始めてから、二階堂にはやってもらってばかりなのだ。絵の展示先との交渉も、絵を搬出する際の書類作成も。
「お前がやるより俺がやる方が早いんだよ。お前は絵を描いてろ」
二階堂が彩人の頬に手を添えて苦笑する。
彩人は恋人の顔をじっと見た。自分との生活に疲れていないかと不安になりながら。だが、彼の端正な顔は冷たさを感じさせない。黒目勝ちの理知的な目は、優しくて甘い視線を彩人に送ってくる。
彼がいなくなったら、自分は何もできなくなるだろう。国民保健、国民年金の振込用紙がどこにあるかもわからないし、自分の運転免許証(正社員のときに通学で取った)をどこかに提示することもない。二階堂にすべて預けているからだ。
自分がどんどんダメな人間になりそうで怖い。いや、実際なっているのか。
早く絵で結果を出さなくては――そんな焦りが生じてきた頃――十月半ば。
出品した覚えのない絵画コンクール(U美術館大賞)から入賞の通知が郵送で届いたのだ。
「彰人、これどういうことだよ。俺、このコンクールには出してない」
帰宅したばかりの二階堂を、彩人は玄関で問いただした。
二階堂は彩人の作品を、勝手にU美術館大賞に応募していたのだ。いくら自分たちが恋人同士でも、彼が彩人のパトロンでも、守るべき一線があると思った。だが、それよりも許せないことがあった。
審査結果の用紙を開いたとき、彩人の手は大きく震えた。作品の題名の欄に『ミュージアム』の文字かあったからだ。隣の結果欄に『大賞』の二文字もあったが、喜ぶことなんてできなかった。
怒りをあらわにした彩人の顔を、二階堂はポカンとした顔をしてみていた。が、すぐに彩人の手中にある紙を奪い取って、その内容を読み上げた。
「彩人、やったな」
強い力で腕を引き寄せられ、きつく抱きしめられた。
「大賞――おまえはやっぱり凄い。天才だ」
二階堂の声は歓喜と興奮で震えていた。
「そうじゃなくてっ、なんで『ミュージアム』を出品したんだよ。あれは、あれは……あんたに見てもらいたくて描いたのに。他の誰にも見せたくなかったのに。俺とあんただけの絵だったのにっ!」
彩人は絶叫した。彩人の中では譲れないことだったのだ。
だが、二階堂は「悪かった」と謝るものの、心の底から反省しているようには見えなかった。彩人の気持ちを推し量ってはくれなかった。
「なんでそこまで怒るんだ。『ミュージアム』は俺にとっても一番大事な作品だ。それをどうしても表舞台に出したかった。多くの人に評価してほしかったんだ」
「俺はそんなの望んでない。あの絵はそんなんじゃない」
「彩人」
「彰人は俺の気持ちを全然わかってくれない。前からそうだった。俺は正社員になりたいって何度も言ったのに、アルバイト止まりにさせた。俺を辞めさせた。俺がバンクシー似の落書きをしたって、企画部長に言ったのは彰人だったんだろ?」
彩人の悲鳴混じりの声を出しながら、二階堂の襟ぐりを掴んだ。
「なんで? なんでだよ」
もう自分でも何を言いたいのか分からなくなった。とにかく激怒していた。悲しかった。怖かった。苦しかった。涙の膜で、二階堂の顔がよく見えない。
「彩人、落ち着いてくれ。泣かないでくれ。俺が悪かったから――お前が正社員になるのを阻んだのは俺だ。フェリテで正社員になったら、お前は絵を描けなくなると思ったからだ」
二階堂の口ぶりに反省の色はなかった。
彩人は彼の腕から抜け出そうとした。が、痛みを覚えるほど強く抱きすくめられ、身動ぎさえできない。
「愛してるんだ。愛してるからお前を絵で成功させたいんだ。分かれよ」
愛してる――突然の、最上級の愛の言葉を告げられる。愛している男に。
でも嬉しくない。信じられない。
「あんたは俺を愛してない。俺の才能――」
そこで彩人は言葉を切った。才能――そんなもの、どうやって見極めるというのか。実態もないのに。笑えてきた。そんなものを信じる二階堂に。
「俺の才能を愛してるだけなんだよ」
彩人は静かに言った。気持ちは落ち着いてきた。
――俺は怖いよ。
二階堂の背中に腕を回す。
――俺が絵を描けなくなったら、あんたは俺を捨てる。
彼と共にいる限り、絵を描けなくなる恐怖を抱えて生きていくしかないのだ。
「あやと」
二階堂の声が甘くなる。首筋に、恋人の形の良い唇が触れてくる。カットソーの中に手を入れられ、乳首を優しくなぞられる。
「あやと」
乞うような、機嫌をとるような、情けない美声。
彩人は二階堂の胸に顔を埋め、彼の匂いを嗅いだ。
いつもの柑橘系のオードトワレ。安心する香り。官能を刺激する香り。
恋人に抱きあげられ、リビングのベッドに連れて行かれる。彩人は拒まなかった。
彼を愛していると思った。
「才能」なんて言葉は嫌いだった。信じてもいなかった。それなのに――才能に一際固執している男を愛してしまった。
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