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旅立ち
彩人はいつもより一時間早く起きた。すぐに暖房をつけて顔を洗い、パジャマから普段着に着替えた。上はシャツとカーディガン、下はブラックジーンズだ。
朝食の準備をする。いつもは二階堂が作ってくれるが、今日は自分が拵える。
卵サンドとハムサンド。レタスときゅうりのサラダ、そしてコーンポタージュ。体が温まって良いだろう。もうすぐ四月なのに、朝はまだ寒いから。
「彩人、おはよう」
二階堂がリビングのベッドから声をかけてきた。ちょっと眠そうな顔で。
「おはよう、彰人。朝ごはんできてるよ」
「ああ、ありがとう。どうしたんだ? 今日は」
「早く起きたから。スーツケースの中、もう一度確認したいし」
「けっこう心配性だな」
二階堂がふっと笑って、パジャマのまま彩人のいるキッチンに歩いてくる。
彼は寝起きの姿さえ格好良い。彩人は性懲りもなく二階堂に見惚れた。
「家、何時に出るんだ?」
「彰人と一緒に出る」
彩人は自分から恋人に抱きついた。寝起きの彼は体温が高くて、彩人にその熱がうつってくる。
軽くキスを交わして、二人は食卓に着いた。
「うちの会社の社長室、彩人の絵で埋まって来てるよ」
二階堂が嬉しそうな顔をして話を振ってくる。
「それは有り難い。社長によろしくお伝えください」
彩人はふざけた口調で言った。
二階堂はずいぶん前から、秘書の早乙女を通して、フェリテの社長に彩人の絵を見せていた。その結果、定期的に購入してくれるようになったのだ。絵画集めは、富裕層の嗜みだから。
コーンポタージュを一口飲んだあと、二階堂が口を開いた。
「寂しくなったらいつでも電話しろよ」
彩人は苦笑して、「それは無理だよ」と答えた。
「なんで。時差とか気にしないでかけて来いよ。俺も行けたら良かったんだけど、どうしても休めなくて。一週間楽しんで来いよ」
「電話はできないよ。昨日スマホを解約したんだ」
彩人の返事に、二階堂が瞬きで反応した。そして不可解そうな表情を浮かべる。
「どうして? 一週間行ってくるだけだろ」
「一週間じゃない。半年以上はあっちに住む。ビザも取得済みだから」
「――なに言ってるんだ?」
二階堂が困惑したように眉を寄せ、彩人を見つめた。
「ニューヨークの美術学校に通う。一応半年のコースを取ってるけど、一年に延びるかもしれない」
「彩人、どういうことだ」
二階堂の声が怖いものになる。顔は青ざめていた。
「黙っててごめん。どうしてもその学校に通いたかったんだ」
「学校に通うのはかまわない。なんで言ってくれなかったんだ? それにお金はどうしたんだ」
「母親に出してもらった」
答えた後、彩人はサンドイッチを一枚食べた。咀嚼の音が耳に響くほど、室内が静まり返っていた。
母親から学校の費用を出してもらう、というのは本当のことだ。
二月初旬だった。U美術館大賞の授賞式に彩人が出席した数日後、母親からスマホに電話がかかってきた。
「受賞おめでとう。絵、続けてたのね。どうしてもお祝いが言いたくて」
電話口の母の声は感極まったように震えていた。
再婚してから七年以上、連絡をしてこなかったのに、彩人の受賞を知ったとたん、母は電話をかけてきたのだ。
「やっぱり美大、行っておけば良かったのに」
母が残念そうな声を出す。
「俺も今はそう思ってるよ。意地なんて張らずに行っておけばよかったって」
彩人は素直に認めた。
「今からでも遅くないんじゃない? 私が学費、支援しようか?」
母は本気で言っているようだった。でも、彩人は四年生もかかる大学には行く気にならなかった。でも、ニューヨークの美術学校には行きたいと思っていたのだ。短期のコースでも良いから、現役のアーティストの仕事を身近で見たかった。
そのことを母に言うと、学費を出すと申し入れられた。
「あの時学費を出してあげなかったから。その罪滅ぼしよ。頑張って勉強してきなさい」
母は裕福な男と結婚したそうで、まとまった額を自由に使えるようだった。
彩人自身にも、貯蓄があった。コンクールで受賞した際、賞金二百万を受け取ったのだ。それも学費やニューヨークに滞在する費用に充てる。
本当は、二階堂に支援してもらった金を返そうと思ったが、彼に受け取ってもらえなかった。
「母さんは父さんと連絡取ってるの」
電話を切る前にそれだけ聞いた。
「取ってるわよ。あの人に毎月、少額だけどお金を渡してる。五年前からまた絵を描いてるのよ。今度個展を開くみたいだから、彩人も見に行ってあげて」
父は作家名を変えて活動していた。だから彩人は、父が絵を描いていることを知らなかったのだ。
母は父の話をしているとき、とても楽しそうだった。
「そういうことなら、半年間頑張って来いよ。応援するから」
二階堂が笑おうとして、失敗した。口元がゆがんだ。
「ここには帰ってこないよ。俺の私物は捨ててくれていいし、残していく絵はどう処理しても構わない」
彩人は立ち上がり、食べ終わった皿を手に持つ。
「彩人」
二階堂も席を立った。彼から続きの言葉はなかなか出ない。
晴天の霹靂なのだろう。こんな展開は。
彩人は十月から、二階堂との別れを予感していたが。
「俺と別れるってことか。なぜだ。上手くやってきてたじゃないか」
「表面的には。俺は続かないと思ってた。あんたの傍にいたら、俺は絵を描けなくなる」
それはずっと感じていたことだった。彼と一緒にいたら、いつ描けなくなるか分からない恐怖と、彼に捨てられる恐怖――ふたつの恐怖と戦っていかなくてはならないと。
彩人に二つは無理だった。どちらか一つでないと。
「俺は別れたくない」
彼の声が震えている。らしくないと思う。あの、出会った頃のクールな表情、態度は微塵も見つけることができない。
「俺も別れたくないよ。――質問して良い? 俺が絵を描き続けるのと、俺と恋人でい続けるの――どちらかしか選べなかったら、どっちを選ぶ?」
二階堂の目をしっかり見て、彩人は問う。
恋人はすぐには答えらえなかった。顔は青ざめたままだ。ややあって、彼は目を閉じ、口を開いた。
「絵を描き続けてほしい」
とても弱く、小さい声だった。
「わかった。答えてくれてありがとう」
空港には早く着きすぎた。
待合ロビーに座って、彩人はデイバッグに入れてきたスケッチブックを取り出した。
アトリエの棚には三十冊以上あったが、そこからランダムで選んだ三冊。
その中から一冊選んで、ページを開いた。
「え」
思わず声が出た。なぜなら、自分が描いた覚えのない絵が描かれていたからだ。
「え、なんだこれ」
お世辞にも上手とは言えない絵。本格的に描いている人の絵ではないと直感した。
――もしかして、これ。
ページを読み進めていく。モチーフはすべて同じ。彩人の顔だった。それも寝ている姿だけ。裸体であったり、パジャマだったり、Tシャツにパンツ一枚だったり。
「なんだよ、これ……」
小さく、情けない声が出た。
指が震えるのを止められなかった。それでもページを繰る。
どれも下手くそなのに、愛おしかった。
最後のページを惜しむように眺める。
裸で横向きになって眠る自分の姿があった。とても安らかな寝顔だった。日付は記されていなかった。代わりに――。
『彩人へ これを見ているとき、君の隣に俺がいることを願う 彰人』
最後まで読んだとたん、彩人は慌てて顔に手を当てた。涙が紙に落ちないように。
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