エピローグ

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エピローグ

 平日のU美術館は空いている。今いる観覧者はちょうど十人。一枚一枚じっくり見る人もいれば、素通りする感じで歩く人もいる。目についたのは、ショッキングピンクのトップスを着た女子大生っぽい人と、近くのコンビに出るときのような服装をした七十代ぐらいのお年寄りだ。どちらも暇つぶしで入ったのだろう。  昼食から帰って来た彩人は、作者用のパイプ椅子に座って、長方形の机にスケッチブックを置いた。  近くに人の気配を感じて顔を上げると、さっき目についた女子大生っぽい女性がテーブル越しに立っていた。 「あの、サインもらえますか?」 「え?」  思わず聞き返す。 「二年前のコンクールで受賞されてましたよね? その絵を見てファンになったんです」 「俺の?」  また聞き返してしまった。 「そうですよ。『ミュージアム』。画集出さないんですか? 出たら絶対に買うのに」  彼女が顔を真っ赤にさせて言う。 「ありがとうございます」  彩人は笑顔を返して、差し出されたクロッキー帳に、自分の名前を書いた。サインなんて決めてないので、縦にバランスよく「月島 彩人」と。でもそれだけじゃつまらないと思って、自画像をデフォルメして描いた。 「うわー! 自画像ですね。似てる!」  飛び跳ねるようにして喜んで、ペコっとお辞儀をして、彼女は出口に向かっていく。  ――ちょっと照れるな。  自分の知らない間に、ファンが出来ているというのは。  U美術館に飾っている作品はすべてカンバスの油彩。三十枚のカンバス。 『ミュージアム』は順路の中間あたりに壁に飾られている。序盤は風景画、中盤は幻想的な絵、終盤は抽象画という順番に並べている。  二年前よりテクニックは上がっていると思う。ニューヨークで一年間、みっちり油絵を学んできた、はず。  入学したばかりのときは英語が耳に入って来なくて、かなり苦労した。でも、クラスメイトと課題を見せ合ったりするうちに、だいぶ英語が上達し、半年ぐらいで講師とも技術的な話を電子辞書なしでできるようになった。  精神的にも鍛えられたと思う。周りに頼れる人なんていなかったし、何度もホームシックになった。課題にC評価をくらって凹んでやけ酒なんてこともあったけど、帰国が近くなったころにはどの課題もA評価を貰えるようになった。  描けなくなったらどうしよう、なんて悩んだり怖がったりできる余裕もなく、ただひたすら課題をこなしていた。  ――二年前の俺って臆病で弱かったよな。  今の自分だったら、二階堂とうまくやっていけたかもしれない。 「別れちゃったし……」  独り言ちて、スケッチブックを広げる。それは自分が描いたものじゃない。かつての恋人が描いたもの。  どれも自分の寝顔が写生されている。このスケッチブックは、初めて中身を見たときから、彩人のお守りになっている。 「まあでも、あのときは、ダメだったんだから仕方ないよな」  あのまま日本で彼と暮らしていても、いつか破綻していただろう。予感ではなく確信だ。 帰国してすぐ、六畳一間のボロアパートに住み、画材だけの部屋で絵を描き続けた。それを、無料で飾らせてくれる美容室、バー、そして、『ひまわり』にも飾らせてもらっている。  案外見てくれている人はいるようで、ちょくちょく買い取り希望の電話がかかってきた。  そんなこんなで彩人は今まで、絵だけで食べてきた。  食後はどうも眠くなる。とくに周りが静かで、絵を描いていないときは。  この建物は、緑に囲まれている。館内の大きな窓から、その豊かな樹木を眺めていると、エントランスドアを開けて、スーツ姿の男が中に入って来た。  ――美術館にスーツで来る人って珍しいよな。  会社の昼休みに、暇つぶしで来たのだろうか。そんなことを考えているうちに、男がまっすぐこちらに歩いてくる。徐々に近づいてくる男のシルエットは、形が良かった。 もっと詳細が見えるところまで彼が歩いてくる。 彼は仕立ての良いスーツを着ていた。黒い皮靴も綺麗に磨かれていた。背が高く体格も良いが、シュッとした印象も受ける。 歳の頃は三十代に入ったばかりの――見たことのある男だった。いや、見たことがあるどころか、毎夜頭に思い浮かべている、かつての恋人だった。 彩人はテーブルをはさんで男と対面した。 黒目の大きい瞳で、彩人の顔を見て、形の良い口角を品よく持ち上げる。  彩人はじっとしていられなくなった。パイプ椅子から立ち上がり、彼の前に立つ。  彼の左手薬指に指輪がないことを確認する。そんな未練たらたらな自分が情けないけれども。彩人は口を開けた。でも声が出ない。だっていきなりだ。なんのシミュレーションもしていない。何を話せばいい? どう語ればいい?  二階堂は彩人よりも余裕があった。当たり前だ。準備してここに来たのだから。  二階堂が嬉しそうな、でもバツの悪そうな顔をした。 「取り急ぎ、デートに誘っていいですか」  初めて出会ったときのような綺麗な敬語。でも、その声音は優しく温かい。 「それは光栄です」  彩人も自然と笑っていた。  ふたりは微笑みあって、一歩相手に近寄った。お互いの手が触れあった。  とある土曜日の昼間。民放番組、『とことこブランチ』で『コーヒーひまわり』が紹介された。 店内には、見る人が見れば「ゴーギャンぽいな」と感じるような壁画がある。  カメラが店の裏口を映し出した。 壁画をバックに、マスターの夫人、幸恵さんが嬉しそうに語る。 「こちらは画家の月島彩人さんが、下積み時代に描いてくださった壁画なんですよ」 その壁には、青い空、浮かぶ白い雲、砂浜の孤島。夏っぽい風景が広がっていて、一本だけの大きい木には、不細工なのに可愛げがある怪鳥、ハシビロコウが二羽とまっている。了 終わりました……! まさかGWで終わるとは思いませんでしたが、書けて良かったです。 今後近いうちに、二階堂視点の後日談、彩人視点の後日談を書こうと思っています。 こういう後日談、番外編読みたいってご意見があったらお伺いしたいです。 読んでくださった方、ありがとうございました。ご感想いただけると励みになります。
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