草上のランチ2

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草上のランチ2

 だが、楽しい談笑タイムは長く続かなかった。ウェイトレスがオーダーしたものを持ってきたあたりで、二階堂から笑みが消えた。 「で、次の企画のアイディアはあるのか?」  目つきも口調も厳しいものになる。それでも二階堂の手つきは優雅だった。軽やかな所作で、ガラス皿からレタスをフォークで口まで運んでいく。彩人も同じメニューのシーザーサラダを食べ始めたが、どうも手の動きがぎこちなくなってしまう。 「あ――アイディアはぼちぼち……」  彩人は返事を濁した。新しいアイディアはあるにはあるのだが、実用化まで漕ぎつけるほどのものなのかは自信がなかった。 「そろそろ使える企画を出さないと、正社員に登用どころか、今の立場も危うくなるぞ。バイトはクビにしやすいからな」  脅すような二階堂の科白に、彩人は慌てた。「ちゃんとアイディアはあります」と言い切る。 「じゃあどんなのか言ってみろ」 「――ブサカワ路線とかどうでしょう」  彩人は上半身を傾けて、芝生に置いておいたデイバッグから、スケッチブックを取り出した。口で説明するより見せた方が早い。  スケッチブックを捲り、さきほど写生したハシビロコウのページを二階堂が見えるように開いた。  彼は目を瞬かせたあと、ポカンとした顔でスケッチブックを凝視している。  若干の緊張を感じながら、彩人は「ハシビロコウなんですけど」と絵の解説を始めた。 「もちろんこのままじゃなくて、もっとデフォルメして可愛く仕上げたいと思っています。『紙もの。』に載せられるようなキャラにできたらと」  ブサカワ押しは彩人の個人的趣味によるものなのだが、ハシビロコウが上野動物園で人気があるのも事実だった。キャラクター化して売れる見込みもあるんじゃないかと彩人は踏んでいる。 「――今にも飛びそうな勢いだな、それ」  少しだけ、二階堂の口元が緩んでいる。 「あ、実際飛びましたよ。このあと」 「へえ、珍しいな。滅多にこの鳥は飛ばないのに」 「はい、俺も初めて見ました。飛んでいるの」  牧歌的な話題で二人の間に和やかな雰囲気が漂ったときだった。隣の席で、たった今まで大人しく座っていた子供が突然泣き出した。  彩人はそっと左隣にあるテーブルを窺い見た。年は三歳ぐらいの男児だ。子供用の椅子に座って、足をバタバタさせている。しかめっ面になって不満を全開にして泣きわめいている。  ――まあ、何か不満でもあるんだろうな。  ぼんやり男の子を眺めたあと、彩人は正面を向いた。二階堂は素知らぬ顔で、まだ彩人が持っているスケッチブックに視線を向けている。  彩人も隣を気にしないで話を続けようとしたが、視界に焦ったような母親の顔が入り込んできて、放っておけない気分に陥った。 「ほら、大人しくしなさい。パンダちゃんも可愛いじゃないの」  疲れたような声で、息子を宥めている。 「やだ! ドラえもんが良いの!」  ムキになって男児が言い返す。  彩人は子供の手元を見た。彼の皿には、パンダのイラストがついたパンケーキが載っている。可愛らしいが、この子供は気に入らないようだ。  二階堂は我関せずといった体で、いつの間にかテーブル脇にやって来ているウェイトレスが配膳している様子を眺めている。彼の頼んだボンゴレロッソは、魚介とトマトソースが絡んだ良い匂いを漂わせている。彩人が頼んだシーフードカレーはまだ来ないようだ。  彩人はスケッチブックを捲って白紙のページを開き、即興でドラえもんを描いた。そのページを破って男児の方を向いた。 「僕、これあげるよ。ドラえもんだよ」  彩人が声をかけると、男児は泣くのをやめてキョトンとした顔をする。が、すぐに彩人の手から紙を奪うようにして取ってすぐ、満開の笑顔になる。 「ほんとだ、ドラえもんだ! ありがとう!」  さっきの不機嫌が吹き飛んだようだ。ニコニコ笑って、彩人の渡した画用紙をじっと見ている。 「ママ、色鉛筆取って! 色塗りたい!」  パンケーキそっちのけで、男児が母親にねだっている。  呆気にとられていた母親は、我に返って男児に色鉛筆を渡し、そのあと彩人に向かって「助かりました」と礼を言ってきた。  彩人は笑顔を返して、視線をテーブルに戻す。と、置いたはずのスケッチブックがない。 「なあ、この絵はなんだ?」  知らぬ間に、二階堂が勝手にスケッチブックを持っていた。 「ちょっと……勝手に見ないでください」  彩人は立ち上がって、二階堂の手からスケッチブックを取り返そうとした。が、タイミング悪くウェイトレスがやってきて、控えめな声で「あの……シーフードカレーです」と声をかけてくる。 「ああ、ありがとうございます」  彩人は仕方なく席に座り、配膳されるのを見守った。  ウェイトレスが去るとすぐに、二階堂が「これ、クールベの真似?」と問うてくる。  彩人は口に含んだばかりのイカリングを吹き出しそうになる。  最悪だ。一番見られてマズイ絵を見られてしまった。 「そうですけど……よくわかりましたね」 「構図がそのまんまだろ。でも肉付きの違いはあるな。クールベのモデルのほうが豊満だ」 「まあそうですね。クールベのモデルって彼の恋人のジョアンナでしたっけ?」  彩人は自分の絵から話を逸らそうと試みる。 「違う。パシャの愛人のケ二オウだ」  二階堂が得意げに話すので、彩人は安堵した。 「パシャ――クールベに絵を依頼した人ですよね」 「ああそうだ。よく知ってるな。依頼人の愛人に手を出すなんて、相当クールベの肝は座ってる」  二階堂が楽しそうに笑った。やはり美術の話をしていると、彼の表情がイキイキとしたものになる。  ――なんだ、まともに喋れる人なんじゃん。  会社では不愛想で、口調も冷たくて、取り付く島なんてないのに。  少し得した気分になって、彩人はまだ湯気が立っているカレーをスプーンで掬う。 「この絵は? ラフ画みたいだけど」  彼が開いているページを見せてくる。そこには、後藤の店に施したステンシルアートのラフスケッチが描かれていた。少女、ブランコ、中年女性の構図だ。 「あ――それはちょっと趣味で描いたものです」 「そうか。完成させたものを見てみたいな」  彼にしては珍しい――前向きなコメントだ。 「二階堂さんに褒められるなんて初めてですね」  いつもダメ出しばかりなのだ。絵はうまいけど実用化はできない、と一蹴されてきた。 「なんで美大に行かなかったんだ?」  食事そっちのけで、二階堂はスケッチブックのページを捲り続けている。 「美大に行っても手堅い職には就けないじゃないですか。俺はフツーのリーマンになりたかったんです。新卒で入った会社が半年でつぶれて、フリーターになっちゃいましたけど」  泥水を飲んで大学の費用を稼ぎ、四年で卒業したというのに。あの屈辱と我慢が報われたと思ったのも束の間だった。  思い出したくない過去が一瞬過って、彩人は慌ててそれを消し去った。 「運が悪かったな」 「俺の見る目がなかったんです。起業して三年ぐらいしか経ってない会社だったし」  後悔しても仕方がないのだが。あのとき、もっと信頼性の高い会社にトライしていたら、と思わずにはいられない。  ――だから俺は、どうしてもフェリテで正社員になりたい。  もう、フワフワした状態で不安を抱えて生きていくのはまっぴらだった。  ――早く実績を作らないと。  そう彩人が意を決したときだった。なんの脈絡もなく、二階堂が話題を変えた。 「来週の日曜日、『紙もの。』チームで花見をやるんだ」  言ったあと、彼は静かにパスタの麺をフォークで巻いた。それはすぐに、形の良い彼の口に吸い込まれていく。 「そうですか。ここの桜、満開になるときれいでしょうね」  彩人は生垣の向こうを遠目に見る。目の隅に映る桜の木は、まだ二分咲き程度だ。 「お前も来いよ」 「え? 俺もですか」  思ってもいないお誘いで、彩人は驚いた。  花見だとか飲み会だとか、そういう交流は、バイトの自分には縁がないものと思っていた。  フェリテは正社員とそれ以外の雇用に明確なラインが引かれているからだ。  正社員は残業するのが当たり前だったが、アルバイトと派遣は残業を許されていない。任せられる仕事も限られている。必要以上にかまってくれる正社員も皆無だ。 「ああ来いよ。正社員になりたいんだったら、正社員と交流を持った方が良い」  微かに笑って、二階堂はまたパスタを口に運んだ。  ――それって、あんたにも気に入られた方が良いってこと?  二階堂に気に入られれば、人事部に口添えしてもらえる可能性は高くなるだろう。「月島を正社員にしてほしい」と言ってもらえれば――。もちろん企画を一つぐらいは通さないと無理だろうが。 「二階堂さんって絵画に詳しいですね」  彩人から話を振る。 「大学で美学美術史を専攻してたんだ」 二階堂が機嫌よく答えてくれる。 「ああ、美学美術史を。俺も少しはかじってるんです。母が大学で美学美術史を専攻してたので、中学まではいろいろ教えてもらってました」  情操教育を受けていたと言っても良い。小学生の頃から、都内はもちろん、近県の美術館に連れていかれ、母からレクチャーを受けていた。 「そうか。だからかな――話が合う」  二階堂が困ったように笑って、彩人を見た。
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