草上のランチの後

1/1
1295人が本棚に入れています
本棚に追加
/79ページ

草上のランチの後

「あー疲れた」  つい独り言を零してしまいながら、彩人は自宅のドアを開け、部屋に入った。 「ほんと疲れた」  もう一度、自分に言い聞かせるみたいに、大きい声をだしてしまう。  時刻は十六時。三十分前に二階堂と別れたばかりだ。お互い食後のコーヒーとデザートを頼んで、その間ずっと喋り通しだった。  話題のほとんどが洋画家とアートビジネスについてだったが、たまに彼は個人的なことも話してくれた。  ――思っていたよりも、とっつきやすい人なのかも。  二階堂に対する負のイメージが薄れたのは確かだった。今日、三時間一緒にいただけで。  彩人は洗面所で手洗いうがいをしたあと、ベッドに座ってスケッチブックを広げた。描きたいものがいくつかある。飛んでいるハシビロコウ、飛んでいないハシビロコウ、何か企んでいるような顔をしているハシビロコウ、笑顔のハシビロコウ。たくさん描いて、デフォルメして、誰もが「可愛い」と思えるようなキャラクターに落とし込む。  彩人には時間がなかった。『紙もの。』の企画会議は次の水曜日に行われる。  明日は一日、『ひまわり』の壁画を描くことになっているし、楽しみで仕方がない。が、そうなると、今日中にキャラクター作りを終わらせなければならなくなる。  ファーバーカステルを手に持ち、真っ白い画用紙を眺めた。 ――名前は『ハシビロくん』にしよう。  そこまで具体的に考え始めているというのに――、彩人の手は違うモチーフを描き始める。さっきまで会っていた、意外な一面を見せた二階堂の姿を。  シャープな顔の輪郭、流麗なラインを保った鼻背、品よく膨らんだ鼻翼、黒目の面積が勝る涼し気な双眸、そして、いつも笑うことがなかった口元――今日は数回緩んでいた。彩人を見るまなざしも若干だが穏やかさを含んでいた。 だから彩人は、彼とのランチのひと時で少しだけ落ち着かない気分になった。  戸惑う気持ちとは裏腹に、鉛筆を握る指は止まることを知らない。  彼の黒い髪、首、肩、胸部と、鮮明に浮かんでくるイメージを、狂いなく描いていく。  彩人は自分に映像記憶の能力があることを、今更ながらだが、有難いと思った。  二階堂の希少な笑顔を紙に残すことができる。いつまた見られるか分からない彼の表情を。  ――だから俺は、『ハシビロくん』を描かないといけないんだって。  そんな突っ込みを己に入れつつも、なかなか二階堂を描くことを止められなかった。
/79ページ

最初のコメントを投稿しよう!