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二階堂の恋人
壁に塗ったシーラーが乾くのを待つ間、彩人はアパートで壁画の下絵を描いていた。頭に浮かんだイメージを忠実に描写していく。とりあえずハシビロコウを描こうと思っていたが、かれのいる場所、背景、咥えている魚の色など、詳しい情報を描き加えていく。
正午ちょうどに家を出て、シーラーが乾いたのを確認した後、彩人は壁画作成をスタートさせた。
壁画を描ける面積はそこまで広くない。案外早く仕上がってしまいそうだ。
脚立に座って、黒の長袖シャツを肘上まで捲り上げる。今日は日差しが強い。
まずは背景から始める。
ローラー、エアブラシ、刷毛を使い分けて青い空、浮かぶ雲、海に囲まれた孤島、海に差す光を描写していく。
頭に思い描いた通りに手が動き、空のグラデーションが出来上がっていく。寸分の狂いなくモチーフが配置されていく。さほど時間をかけることもなく。
我ながら絵のテクニックは相当なものだと思う。物心つく頃から、父と母に絵を描かされてきたからかもしれない。いや、そうに決まっている。映像記憶能力がこの年齢になって残っているのも、押しつけがましい情操教育の賜物だ。
彩人は空腹を覚えても、四肢に疲労を感じても、手が痺れてきても、描くことを止めなかった。今日描かなかったら次の土曜日までお預けになる。嫌だ。
アドレナリンが分泌されているのが分かる。コントロールできないハイテンションに身を任せ、夢中で描き続けていたそのとき。
邪魔をする声が聞こえてきた。苗字を二度呼ばれ、彩人は我に返るしかなかった。
「――はい?」
首だけを背後に向ける。と、いるはずのない男が、そこにいた。
彩人は脚立に座っていたので、男を見下ろす形になった。
「――二階堂さん」
なぜか声が浮ついて、明るいものになる。
まるで喜んでいるみたいに。
彼はオートミール色のシャツの上に黒いジャケットを羽織り、墨黒のチノパンを今風に着こなしていた。昨日とは違う服装。昨日はもっとシンプルだった。ダサいわけではなかったが、ファッションに気を遣っている風でもなく。でも今日は――。
二階堂の隣に立つ女性を見て、彩人は合点がいった。
――デートだからか。
『ひまわり』でお茶でもしてきたのだろう。この店のコーヒーはもちろん、濃厚な風味のチーズケーキは女性客に人気がある。
彩人は今一度、二階堂の右隣りで佇む女を見た。
綺麗な人だ。小さい卵型の顔に黒髪のショートがよく似合っている。もともと彫が深いのだろう。薄化粧なのに目鼻立ちがはっきりしていて肌もきめが細かい。スタイルも良い。二階堂より頭二つ分ほど背が低いが、すらっとした体形の割に、曲線美はしっかりある。並んでいる二人は、誰が認めるほどの美男美女のカップルだ。
「まだこの店で絵を描いてるんだな」
心なしか嬉しそうな声で二階堂が言った。目を細めて壁画を眺めている。
「二階堂さんは何でここに」
「彼が月島さんの絵を見せたいって言って、私をここに連れて来てくれたんです」
二階堂の肘に手を触れながら、美女が彩人に向かって説明してくれる。
「あ、私はフェリテの秘書課に勤めている早乙女と申します。よろしくね」
彼女の笑顔は大人っぽい。彩人より年上なのが分かる。
「――俺は、」
バイトで入ったばかりの、と続けようとしたが喉が詰まった。それを察したように彼女が口を開く。
「期待の新人さんなんでしょ? 月島さん」
いたずらっぽい目をして、今度は恋人の顔を見上げて言った。
「そんなこと言ってないだろ」
二階堂が嫌そうに顔を歪めたが、彼女を見るまなざしは温かい。
「海と孤島と――あとは何を描くんだ?」
話を逸らすように、二階堂が質問してくる。
「描いてからのお楽しみです」
彩人は素っ気なく返して、壁面に向き直った。
彩人は描画を中断したことを後悔していた。背後には二階堂たち以外にも外野がいたのだ。
「じゃあな、月島」
二階堂の声を背中で聞きながら、彩人は集中するために強く目を閉じた。
ひそひそ話も、好奇な視線もシャットアウトすべく、絵の中に自分が飛び込んでいくイメージを何度も何度も重ねていく。
彩人くん、と呆れたような声で名を呼ばれ、彩人はハッとした。指から力が抜け、絵筆を落としそうになる。
裏口の窓を開けてこちらを見上げる幸恵と目が合った。
「夕飯の賄いできてるから食べに来なさいよ」
「あ――ありがとうございます。行きます」
彩人は礼を言って、脚立から地面に飛び降りた。とたん軽く眩暈を覚えて、目を閉じた。同じ体勢で絵を描き続けていたせいだろう。
瞼を開け顔を上げると、さっき別れたはずの男が視界に入った。
「なんでいるんですか」
さっき早乙女とここを去ったはずなのに。
「お前が何を描くのか教えてくれないからだろ。気になったから戻ってきてずっと見てたんだけど。気づいてなかった?」
「早乙女さんは?」
彼の隣には誰もいない。
「先に帰らせた」
――そこまでして見学するほどの物じゃない。
彩人は苦笑しながら、脚立を畳んだ。今日はもう描けない。周りは薄暗くなっていて、向かいのビルには常夜灯が灯っている。腕まくりして露出した肌は、夕方の寒気のせいで冷えている。
空腹のせいか、頭がクラクラする。彩人はふらつく脚を叱咤しながら、裏口のドアを開けた。とたん、足が滑って転びそうになる。
「大丈夫かよ。ずっと脚立に座りっぱなしで描いてたな」
思いがけず、男の手に肘を引っ張られ体勢を正される。二階堂が体を支えてくれたのだ。
「平気です。これぐらい。慣れてますから」
ストリートアートは中学の頃からやっている。合法なのも非合法なのも。今はもちろん合法オンリーだが。
「賄い食べるのか、店で」
「はい。腹が減って死にそうなんで」
「本当に死にそうな顔してる」
皮肉っぽく笑って、二階堂が彩人の後をついてくる。
「俺もここで食べるかな。腹減ったし」
彩人は店内に入ってすぐ、レジ近くの置時計に目をやった。もう夕方の六時半になっていた。
二階堂と早乙女が裏口から出てきたのは午後三時過ぎだった。それからずっと、彩人の背後に立って出来上がっていく絵を眺めていたのだろうか。
――物好きな人だな。
でも、悪い気はしなかった。
「この店のビーフカレーはうまいですよ。肉エキスが染み込んでて」
彩人は振り返って、二階堂に微笑んだ。自分の笑った顔が、男にも女にも魅力的に映ることは前から知っていた。
「じゃあ、それを頼もうかな」
二人は空いている丸テーブルに、向かい合って座った。一緒に食事をすることに何のためらいもなかった。
――デートよりも俺の絵を選んだってことか。
さきほど肘を掴んできた手は、自分と同じぐらい冷えていた。
自然と笑みが浮かぶ。
満更ではなかった。
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