変化2

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変化2

 会議室の予約をしたあと、彩人は先を歩く二階堂についていった。たどり着いたのは会社から徒歩五分の、定食のチェーン店だった。  彩人は安心した。へんにお高い店に連れていかれても恐縮してしまうからだ。リーズナブルな価格の店の方が気を遣わなくて済む。   店内はサラリーマンで混みあっていたが、まだ空いている席もいくつかあった。  二階堂も彩人も、同じ焼き魚定食を頼んだ。 「なんかすみません。一昨日、今日と、奢ってもらうなんて」  でも有難かった。彩人の財布には千円ちょっとしか入っていなかった。銀行の預金残高は毎月なんとか六桁を維持しているが、少しでも大型出費があったら、失業したら、全財産はすぐに底を尽きる。 「お前、ちゃんと食べてるのか」  向かい側に座る二階堂が、呆れ半分心配半分といった表情で彩人の顔を見てくる。 「顔色がよくない」 「そうですか?」  彩人は思わず顔をペタペタと触った。体調はそんなに悪くないと思う。貧血の症状もない。ただ、万年貧乏で、栄養のある食事はあまり摂れていないかもしれない。夕食は自炊しているが、量は少ない。食費は極力切り詰めている。 「肉体労働だってデスクワークだって、体が資本だろ。食事と睡眠はきちんととれ」 「わかってますって」  彩人は少しウンザリしてきた。心配してくれるのは有り難いが、踏み込まれすぎるのは好きじゃない。 「もう少し太れ。痩せすぎだ」 「そんなことないですよ。標準体重です」  標準体重が身長百七十センチの場合何キロなのか知らないが。 「昨日、お前の腕を掴んだ時、細くてびっくりした」  おしぼりで手を拭きながら、二階堂が彩人の首あたりを一瞥する。彩人はそこを隠したい衝動に駆られた。  二階堂の実感のこもった物言い、視線に何も言い返せなくなった。だから話題を変える。 「どうして俺が金ないってわかるんですか」 「わかるに決まってるだろ。一日置きに同じ服着てるし、髪型も――さっぱりしてはいるけど、千円カットとかに行ってるんだろ? 身だしなみに金を使えないって一目瞭然だ」  ――服までチェックされてるのか。  美容やファッションを扱う職場だからだろうか。細かく見られているようでゲンナリしてきた。図星だから余計居たたまれなくなる。 「試用期間は三か月から半年ある。その間はバイトのままだと思うぞ。一人暮らしが大変なら実家に一時的にでも戻るとか考えたらどうだ」  ――戻れる場所なんてない。  実家自体ないのだ。  両親は離婚している。父は失踪し、母は再婚して新しい夫と彼の連れ子と暮らしている。  でもそんな事情を説明する気にはならない。第一、なんでこんなことまで言われなくてはならないのか。彼に。 「健康管理と身だしなみは、ちゃんとします」  彩人は強い声できっぱりと言った。これ以上踏み込まれたくない。  でも、二階堂のいう事は正しい。すぐに正社員になれないのなら――給料が増えないのなら、今の生活状況を変えるしかない。もっと安い家賃のアパートに引っ越すとか。  ――ダメだ。引っ越し自体に金がかかる。  これ以上家計を切り詰めるのにも無理がある。だったら。  ――副業しかないか。  心の中でため息を吐いた。  店員が焼き魚定食を運んできたのを機に、二階堂が話題を変えた。 「月島の好きな画家って、ピカソとゴーギャン以外で誰がいる?」  また画家の話。でも彩人も好きな話題だ。 「マティスと山下清、かな」 「山下清、か。意外だな」  二階堂が可笑しそうな顔をする。ちょっと小ばかにしたようにも見える。二階堂は日本人画家より西洋人画家を贔屓にしているのかもしれない。 「彼は凄い画家だと思いますけど。とびぬけた映像記憶の能力があったし、作品も緻密でリアルだし。色使いも素敵だと思います」  彩人は半ばムキになって山下清を褒めた。本当に彼はもっと世界的に評価されて良い作家だと思っている。 「なにムキになってるんだ? 俺も山下清の色彩感覚は優れていたと思ってる。じゃあマティスは、どんなところが好きなんだ?」  二階堂が更に聞いてくる。魚の骨を綺麗に取りながら。 「マティスの作品はどれも個性があるし、見ていて飽きない。野獣派の中で一番好きです」  とくに好きな作品を二作挙げると、二階堂は頷いて微笑んだ。 「俺もマティスは好きだよ。見る者の感性に訴えるものがある。感性で描いた絵だからかな」 「そうですね。色使いとか現実的じゃないけどインパクトがあって、一度見たら忘れられない」  話しているうちに彩人は楽しくなってきた。やっぱり絵画の話は、ある程度知識がある人とするに限る。  一度会話をストップさせ、彩人は白飯と焼き魚を交互に口に運んだ。旬ではないものの、程よい焼き色がついたホッケは油ものっていておいしい。  食欲が満たされると、心にも余裕ができるらしい。静かに食べている二階堂に自分から話しかける。 「俺、マティスの生き方も好きです。晩年は筆で絵を描くこともできなくなったのに、諦めないで創作意欲を全うさせた」 「カットアウト」  二階堂が嬉しそうに言う。 「そうです。それで『かたつむり』っていう傑作が生まれた」  描けなくなって絶望することもなく、自分のできることを模索した。 「貼り絵が好きなのか。山下清もそうだ」 「興味はあります。やってみたいとも」 「やってみろよ」  彩人は頷いた。本当は興味を持ったことは手あたり次第にやってみたいのだ。時間がなくてなかなか新しいことは出来ないが。 「コーヒー飲もうか」  二階堂にすすめられ彩人は頷いて、戸惑った。 「良いんですか」 「遠慮するなよ」  二階堂が手を挙げて、店員とアイコンタクトを取る。スマートな所作に、彩人は目を奪われる。 「月島は絵の話をしているときはイキイキしてるな」 「二階堂さんもそうですよ」  言い返すと、二階堂は「そうか?」と戸惑ったような顔をする。自覚がなかったらしい。  ふと、絵の話以外はどうなのだろう、と考えた。絵画や画家の話題は楽しいけど、それ以外の話もしてみたい。  ――それ以外ってなんだよ。  二階堂はただの上司なのに。  自分は必要以上に踏み込まれたくないのに、彼のプライベートを覗いてみたいと思ってしまった。――自分勝手だ。  運ばれてきたコーヒーを強く飲み込み、ふって湧いた気持ちを打ち消した。
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