疑惑

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疑惑

 彩人はデスクに着いてすぐ、同じ島の女性にハシビロコウの知名度アンケートを実施した。次いで、隣の島、その隣の島と質問をしていき、フロア全体が終わったら、二階のカスタマーサポートに行って、就業前の女性に一人ひとり「ハシビロコウを知っているか。好きか、嫌いか」質問し、年代も答えてもらった。  自席に戻って集計し、パワーポイントでグラフを作成する。  普段の業務や電話応対をしながらの作業で、なかなか早く終わらなかった。  午前中はあっという間に時間が過ぎた。昼休憩にコンビニに行って、いつもよりリッチな弁当を買って、近くの公園でベンチに座って一人で食べた。  会社に戻り、自分の席に向かっている途中、近くの島、同じ島の女性からチラチラと視線を送られている気がした。  ――何だろう?  気になりながらも席に着くと、向かい側で化粧直しをしていた上野が、ひそひそ声で話しかけてきた。 「ねえ、なんか、へんな噂流れてるよ。月島くん」 「え?」 「今日、出社するとき男の人に車で送ってもらってたんでしょ?」  ――誰かに見られてたのか。駐車場で?  首筋に冷や汗が浮かんだ。じん、とこめかみまで疼く。 「お金もらってたとか――月島くんが昨日と同じ服着てるとか。ちょっとマズいかも。うちの会社って女ばっかりで噂がパーッと全体に拡がっちゃう」  上野が心配そうに言う。でも目に映る好奇心は隠せていない。 「なんか、誤解されてるみたいですね。俺は――」  なんとか弁解をしようと頭をフル回転させたそのとき、同じ島の室生に名前を呼ばれた。 「ちょっとこっち来て、月島くん」  手でおいでおいでをされ、彩人は席を立った。  彩人は四階の小会議室に連れていかれた。  なぜか室内には、室生と彩人以外に、もう一人いた。二階堂だ。  彼と室生が並んで、彩人の向かい側に座った。 「昼休みの間にね、月島くんの良からぬ噂が立ったのよ。今日は朝、電車で来なかったのよね?」  彩人の顔を凝視しながら室生が聞いてくる。 「はい。昨晩は友達の家に泊まって、今朝はその人に送ってもらったんです」  彩人は意識してハキハキと答えた。自分は疚しいことはしていない。堂々としなくては。 「月島くんがその人からお金を受け取っているのを見たっていう人がいるんだけど、それは本当?」  声のトーンを落として、室生が問うてくる。 「本当です。昨日俺は、友達にヘナタトゥーを施術したんです。その費用と手数料としてお金を受け取りました」 「ああ、そうなの。ヘナタトゥーって最近流行ってるもんね。へえ、月島くんもできるんだ」  急に室生の表情が明るくなった。彩人に対する疑惑をいっぺんに払拭してくれたような顔。  彩人は安堵した。 「ヘナタトゥーは高校のときからやってます。文化祭で頼まれたのがきっかけで」 「そうなんだ……じゃあさ、ちょっと私にもやってくれる?」 「えっ?」  思ってもみないオファーに、彩人は素っ頓狂な声を出してしまう。 「ちょっとね、私も興味あるのよ。ヘナタトゥーをやる際、ステンシルシートを使ったりするでしょ? そのデザインシートをうちの会社で企画して売り出せないかって」  彩人は中座してデスクにある自分のデイバッグを取って、また会議室に向かった。  二階堂が見ている中、彩人は室生の手首に、彼女が希望したキャラ――ムーミン――を即興で描いた。 「なにこれ。滅茶苦茶可愛いじゃない!」  室生が珍しくはしゃいだ声を上げた。  ずっと黙っていた二階堂も、「上手いな」と感心したようにムーミンをじっと見た。  会議室にさっきまであった緊張感は一気に消失し、和やかな空気が生まれた。 「変な疑いをかけちゃってごめんね。なんかね、月島くんが男性相手に『ウリ』をやってるんじゃないかって声が出ててね。本当に失礼しちゃうわよね。私と二階堂くんが噂の更新しておくから」 「――なんで俺が」  二階堂が不本意そうに言う。  ――何でこの人、ここにいるんだろう。  二階堂は彩人の直属の上司ではない。所属グループが違うのだ。 「でもね」  突然室生の声が真面目なものになったので、彩人は姿勢を正して彼女を見た。 「通勤は電車でって決まってるんだから、イレギュラーなことは極力しないようにしてね。服も昨日と同じものを着ているわよね。社会人としてもう少し襟を正した方が良い。ちょっとした気のゆるみで、社内に卑猥な噂が立ったり、変な憶測が流れちゃうのよ。それで職場の士気も下がったりするから」  気を付けてほしい、と念を押され、彩人は素直に頭を下げた。 「申し訳ありませんでした。気が緩んでいました。今後気を付けます」 「うん、お互い気を付けましょう。じゃあ、解散」  三人は席を立って会議室を出た。とたん、後ろから二階堂に、カットソーの襟ぐりを引っ張られた。 「ちょっ……なにする……」  異議を唱えようとしたが、耳元に口を使づけられ、彩人は固まった。ドクンと胸が鳴った。 「首に噛み痕が付いてるぞ。昨日、会議室でプレゼンの説明をしたときにはなかった」  言い切った後、二階堂は彩人に軽蔑したような視線を向け、エレベーターではなく階段に向かった。  彩人は己の首に手を当てたまま、彼が下りて行った階段を眺め続けた。
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