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花見
次の日曜日、始発の電車に乗って、彩人は上野恩賜公園に向かった。本当は花見を欠席したかったが、金曜日に辻井から場所取りを頼まれ、ブルーシートを手渡され、断れなくなった。
――来ちゃったよ。
辻井に指定された場所は、桜並木がある中央園路だ。開園(午前五時)から三十分しか過ぎていないのに、すでに多くの先客がいる。彼らはブルーシートを敷いて、四隅を水の入ったペッとボトルで押さえている。団体名が書かれた段ボールの看板もある。
「あー俺、全然用意してこなかった」
自分が持ってきたのは、麦茶入りの水筒と、スケッチブックと、ファーバーカステルのペンシルと、十二色のクレパスだけ。
彩人は残されたスペースの中から、一番桜が密集している場所を選び、急いでブルーシートを広げた。四隅の重しは、デイバッグ、クレパス、スケッチブック、そして自分。
とりあえずやることを終わらせた。ブルーシートは大きい。10平方メートルあるから、十人座れる計算だ。
――『紙もの。』以外の人も来そうだな。
なんせ二階堂が出席するのだ。彼目当ての女性が集まらないわけがない。
――ってなると、反対に狭いんじゃないか。これ一枚だと。
そんなことを考えていると、頭上から「よお」と男の声が降ってきた。彩人は反射的に顔を上げた。
そこにはガタイの良い男が立っている。日焼けした坊主頭に、愛嬌のある丸い目、意志の強そうな太い眉――隅田だ。
「月島、おはよう。場所取りご苦労さん」
「おはようございます、隅田さん」
彩人は男を見上げながら笑った。
彼は一週間ほど中国に出張していたのだ。貴重な男性社員が帰って来てくれて嬉しい。
隅田は二階堂と同じ二十八歳で、頼れるお兄さんだった。
「あーやっぱりお前、必需品を持ってこなかったな。俺が持ってきてやったから安心しろよ。段ボールだろ、サインペンだろ、酒にお菓子にiPadに……」
彼が山岳用のリュックから次々と必需品(くだらないもの含む)を取り出すので、彩人は笑ってしまった。
ブルーシートの重しは、隅田の持ってきた酒瓶四本に差し替えられた。
彩人は段ボールにサインペンで『株式会社フェリテ』『代表者 二階堂』『使用時間 午前五時~午後三時』と必要事項を書いた。余白ができたので、桜のイラストを追加する。
「お前ってほんと絵が巧いなあ。ちゃちゃっと描くのな」
いつの間にか、隣に隅田が座っている。
「なあ、皆が来るまで暇だから動画でも見てようぜ」
「いいですね、それ」
隅田の提案に彩人は乗った。桜のスケッチでもしようと思っていたが、後に取っておこう。
隅田が選ぶ動画は人気オンラインゲームの実況ばかりだった。そのオンラインゲーム自体を知らない彩人にとっては退屈だったが、隅田はバカ受けしている。
彩人の瞼は重くなっていく。今日は四時起きだった。眠くなって当たり前だ。
「おーい、月島。そろそろ起きろよ」
髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜられ、彩人は目を覚ました。頬には布の感触がする。と思ったら、自分が隅田の膝枕で寝ていたこを唐突に知った。
「あ、すみません。寝ちゃいました」
彩人は慌てて起き上がった。
「もう皆集まってんよ。ピザとかちらし寿司があるぞ。あ、飲むか?」
隅田に透明カップに入ったビールを渡され、彩人は受け取った。
前方を改めて見渡すと、女性が楕円を作って座っていた。彩人と隅田はその輪から外れている形だ。
女性の輪の中に男が一人――二階堂だ。彼の両脇を田中と辻井が固めている。輪の人数は八人だ。
「相変わらずモテてるなあ、二階堂は」
隅田が割と大きい声で言うので、近くに座っていた女性がパッとこちらを見た。
「あれ、月島くん、ちょっと垢ぬけてない?」
上野がマジマジと彩人の顔を覗き込んでくる。
「髪切った?」
「はい、昨日」
身だしなみをもうちょっときちっとしようと思って、昨日近くの美容院に行ったのだ。カットだけで四千円プラス消費税。痛い出費だったが、たまには良いかと思いなおして。
土曜日に服も買った。ここ数年、お洒落にも気を遣っていなかったから、服選びにも難儀した。
「良いじゃん。ほんと垢ぬけてる。ね、こっちに来なよ」
上野に促され、彩人と隅田も輪の中に入った。
「隅田さん、すみません。ジャケット借りてたみたいで」
彩人は自分に膝にある黒のジャケットを、隅田に渡そうとした。が、「俺のじゃないよ」と言われる。
「二階堂のだよ」
「え、そうなんですか」
急に顔に熱が集まる。彩人は暫し逡巡した後、ジャケットを折りたたんで立ち上がった。起きたのだから、もう上掛けは必要ない。返さなくては。
輪の外側を通って、二階堂の元に向かう。
「二階堂さん、これ、ありがとうございました」
「ああ」
振り返ってくる二階堂にジャケットを押し付ける。すべきことを終え、彩人はホッとしながら元の場所に戻ろうとしたが、「ここにいれば」と声をかけられる。
「え――でも」
二階堂の両脇には人が埋まっている。
「辻井、ちょっとズレて」
辻井が嫌そうな顔をしつつも、二階堂に言われた通り人一人分のスペースを作ってくれる。
「すみません」
彩人は謝りながら、二階堂の隣に座った。
「場所取りご苦労様」
二階堂の思いがけない労いの言葉に、彩人は「はい、いえ」と変な返事をしてしまった。
目の前には缶ビール、酎ハイ、日本酒の瓶などの酒類と、ケータリングのサンドイッチ、唐揚げ、ポテトフライ、おにぎりなどの食べ物で埋め尽くされていた。
彩人は自分の紙皿に食べ物を箸で運ぶ。お腹が空いて今にも鳴りそうだった。
酒はさきほど貰ったビール一杯に留めておく。と、目ざとく二階堂が声をかけてきた。
「酒はもういらないのか」
二階堂は酒とツマミを交互に摂っている。
「いりません。酔いたくないので」
「この後予定があるのか」
「そうですね……終わったらスケッチしたいんで。桜とか、桜とか」
とにかく桜が描きたいと思った。こんなに綺麗に咲き誇っているのだ。今日しか描けないモチーフだ。
「大事な事だから二回言った? 今」
二階堂が珍しく吹き出した。初めてかもしれない。
「描かなきゃ損じゃないですか。こんなきれいな桜」
彩人は愉快な気分になってきた。ビール一杯で酔ったようだ。空きっ腹に飲んだからか。
「前から思ってたんですけど、上野さんってモディリアーニのおさげ髪の少女に似てません?」
声を潜めて、二階堂に耳打ちする。と、彼がまた面白そうに笑った。
「似てる」
「ですよね。あと、社長は、ゴヤの自画像」
彩人が言うと、二階堂が一拍置いて声を出して笑った。
「確かに似てる」
「ですよね!」
彩人も声を出して笑った。
「何? 何か面白いこと話してた?」
田中と辻井が探るような目で聞いてくる。私たちも話に入れてよ! と目で訴えてくる。
「社長がゴヤの自画像にそっくりって話」
二階堂が気分良く答えると、女性二人はポカンとした顔になって、その数秒後にスマホを弄り始めた。
「わかんねえよな、普通は」
二階堂が笑いながら彩人を見た。
その目には軽蔑の色がない。彩人は急にホッとして、泣きたくなった。
「――俺、トイレ行ってきます」
彩人はデイバッグを持って立ち上がった。
「俺もトイレ」
二階堂も立ち上がる。
トイレで用を足したあと、花見に戻ろうとした彩人を二階堂が後ろから呼び止めた。
「不忍池の方に行こう。絶景だから」
「え、でも、戻らないと」
「女子会に戻ってもつまらないだろ」
確かに。
彩人は頷いた。
人でごった返す道のりを、二階堂と並んで歩いた。
隅田に申し訳ないと思いつつ。
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