パトロン予備軍

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パトロン予備軍

 翌朝、彩人は二階堂が買い置いていったヨーグルトとクロックムッシュを食べてから出勤した。  おはようございます、と通り過ぎるスタッフに声をかけながら歩き、始業時間ちょうどに自席へと辿り着く。が、いつもとデスクの様子が違った。自分が使っているノートパソコン、メモ帳、ペン、が机の上になかった。  彩人が首を傾げていると、隣の高松が「席、二階堂さんの隣になったよ」と教えてくれた。 「え、なんでですか」  思わず大声を出していた。 「聞きたいのはこっちの方よ!」  高松も大きい声で応戦してきた。 「お前がこいつをこき使うからだろ。月島は『紙もの。』が引き取るから」  急に背後で二階堂の声がした。彩人はびくりと身を竦ませた。昨日の今日だ。顔を合わせづらい。 「電話に出る人がいなくなっちゃう!」  高松の手が彩人の腕に伸びてくる。それを阻むように二階堂が彩人を後ろに引っ張った。 「お前が出れば解決だな」 「電話嫌いなのに~」  ようやく高松の口から本音が出た。 「月島くん、すぐにまた『サニーデイ』に戻してあげるからね!」 「戻らないよ、月島は。沢山タスクを負わせたから、こいつがおかしくなったんだろ。こんなに痩せて」  行くぞ、と促され、彩人は『紙もの。』の島まで歩かされた。元辻井の席に座る。 「俺の隣な。電話は原則でなくて良い。雑務もなし。デザインだけやってろ」  デスクの右側には、デザインソフトのマニュアルが積まれている。  ノートパソコンを起動させる。と、デスクトップにillustratorをはじめ、ドロー系ソフトのショートカットがいくつも追加されている。 「マニュアルを見ても分からないところは俺に聞け」 「二階堂さん、illustrator使えるんですか」 「バカにするなよ。一通りどれも使える」  不愉快そうに顔をしかめてから、二階堂は電話の受話器を取った。 「あの、勝手に俺の異動とか……」  勝手にやりすぎている気がする。この人は。 「今日人事に話すから問題ないだろ。もう話しかけるな」  事後報告かよ、と心の中だけで突っ込みを入れ、彩人はillustratorを開いた。起動が遅いな、と思っていると、内線がかかってきた。 「明日の夕方に新しいパソコン届きますから。今のより高スペックですからね」  業務部からの電話だった。  二階堂の手際の良さに舌を巻く。  彼は感じの良い声を出して、取引先と電話で話している。 「昼飯行くぞ」  二階堂に声をかけられ、彩人はパソコン画面から視線を上げた。二階堂は隣の席でパソコンを閉じているところだった。 「午後から外出ですか」 「ああ。今日は出先から直帰だから」 「はあ」  二階堂はリサーチや新人デザイナーの発掘も行っている。外に出て取引先と商談することもある。やることが多岐にわたっていて忙しそうだ。 「今日は何食べたい?」  珍しく彩人の意見を聞いてきた。 「え……そうですね。あっさりしたものを」  けっきょく昨日はお粥しか食べていない。 まだ復食っぽい食事が良かった。 「わかった。ファミレス行こう。好きなの頼め」  ――また奢ってくれるんだろうな。  申し訳ない気持ちが湧いてきた。昨日はステーキ、お粥を御馳走してもらった。 「今日は自分で払いますから」 「遠慮するな。金がないんだろ?」  哀れみの目で見られ、彩人のプライドはちょっと傷つく。 「それぐらい払えます。外食ばっかじゃ厳しいけど……明日からはちゃんと弁当持ってきますから」 「ああ、良いんじゃないか弁当」  二人は同時に席を立って、ファミレスがある駅前まで歩いた。  フェリテの自社ビルは駅から徒歩十分の場所にある。繁華街から離れているので、街並みは静かだ。車の通りも少ない。  脚が長いせいか、二階堂は歩くのが早い。彼に合わせようとすると、自然と早歩きになった。そして足が攣った。 「すみません、ちょっと待ってください」  彩人は右のふくらはぎを両手で押さえた。足の裏がから膝までビリビリ来た。 「何やってんだお前」 「足が攣ったんです!」 「歩いただけでか。どれだけ運動不足なんだお前は」  ウンザリしたように二階堂が前髪をかき上げた。  でも、彩人が歩き出すまで傍らで待っていてくれる。  ――この人、冷たいんだか優しいんだか……。  いや、優しい。二階堂は、やさしい。  二階堂の右腕が、彩人の背後に回されている。彩人がよろけたときのためにスタンバイしてくれている。  まるで女性をエスコートするみたいに。  そこまで考えてしまって、彩人は赤面した。  そのとき風が強く吹いた。  二階堂からシトラス系の香りがして、また彩人の顔は熱くなった。  昨日自分は、この香りを嗅いだ。夜、抱き合ったときに。  ――香りって結構長く続くのかな。  それとも、夕方ぐらいに香りを付け足したのか。  ――昨日の夜、本当は予定があったのかもしれない。  早乙女とデートをするとか。 「もう大丈夫です。すみません」  彩人が歩き出すと、今度は二階堂が歩幅を合わせてくれた。 「本当は絵を描きたいんだろ。仕事でも」  なんの脈絡もなく二階堂が話し出す。 「午前中、楽しそうに仕事してただろ。ソフトにもすぐに慣れていた」 「まあ、好きなことですから」 「好きなことを仕事にすればいいだろ」 「――絵は趣味で良いです」  何度も言った科白を、また言うことになる。彩人はうんざりしてきた。 「お前には才能がある」  二階堂が立ち止まって、真剣な目で彩人を見た。  ――また出た。才能。 「俺に才能があったとしても――絵で食べて行くのは無理です。俺の父親は洋画家でした。パトロンがいたときはそれなりに稼ぎがあったけど、いなくなったら終わりだった。売れなくなって描けなくなって――母一人が馬車馬のように働いたけどそんな生活長く続かない。母に見放された父は行方不明です。俺は野垂れ死んだと思ってます」  話しているうちに激情が襲ってきた。  ――芸術なんて仕事にするもんじゃねえんだよ。  一般庶民の自分には無理だ。働かなくても生きていけるだけの財力があれば別だが。 「俺はお前に絵を描いてほしい。描きたいのに時間がなくて描けないのはもったいない」  こんなに才能があるのに、と二階堂が付け加える。その声は掠れていた。 「連休中も、描けなかったストレスが爆発したんだろ?」  図星を突かれ彩人は返事に詰まった。  ――そうだ、俺は。死んでも良いから絵が描きたかった。  休みが一か月あったら、自分がどうなっていたか分からない。 「お前が嫌じゃないならサポートする」 「――サポートって」  恐る恐る彩人は聞き返した。  嫌な予感しか湧いてこない。 「飯ぐらいいつでも奢ってやる。手作りのものが食べたいなら作っても良い。俺は家事全般得意だからな」  ――そこまでできるのかよ。俺に絵を描かせるためなら?  彩人には理解不能だった。赤の他人のためになぜそこまでできるのか。  ――二階堂さんって、パトロン予備軍なんじゃ。  彼の一連の言動は、誰かに似ていると思った。  ――母さんだ。俺の母さんにそっくり。  父に何もさせなかった。彼の身の回りの世話をして、絵を描くことだけに専念させていた。金も貢ぎ続けて。肉体関係込みのパトロンも容認して。 「迷惑です」  彩人は顔を上げ、わざと二階堂を睨んだ。 「――俺のことが好きなのに?」  彼が意地悪く笑った。 「その話は昨日で決着がついてます」  自分でも驚くほど冷めた声が出た。 「あんたが気に入ってるのは俺じゃなくて俺の絵だろ。俺はそんなの嬉しくない」  彩人は二階堂から視線を逸らした。 「早くファミレス行きましょう。遅くなると混んじゃうから」  気分を切り替えるために、彩人は精一杯二階堂に笑いかけた。
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