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私を忘れないで。
決して削除しないで。
ここで待っているから。あなたがレンダリングの果てに私を受けとることを。
私を理解して。
私を読み解いて、1キロバイトのテキストデータも、自動生成された事実の羅列も、あなたに送った大切な言葉も。
私を忘れないで。
5テラバイトの私の物語。
私を忘れないで。
私を感じて。
このログで。
お願いだから、私を…。
忘れないでね。
ヒアラブルデバイスの呟きは彼女の声そのものだった。そこに風音がまじる。
部屋を赤い光が横切る。
焦げた匂い。
まだ待って。
視軸が視界右上のスピーカーアイコンをつかみ、外部音量がしぼられ、内部音量があがる。
彼女の声。まるでそばにいるよう。匂いさえ感じられそうだ。ぬくもりも。
しかし、それはデータとしての彼女の物語。
あらゆる体験を、インプランタルデバイスの検索履歴を、人体のメタヒストリーをレンダリングして、その人を蘇らせるライフグラフのありふれたサービス。
私たちの圧縮された人生はクラウドに保管され、遺族はそれらをストリーミングして故人を観る。
それが唯一、蘇らせられないのが匂い。
潮の香りは人工香料の配合で作り出せる。苺の香りもホテル・シャマールのエッグベネディクトの匂いも再現できる。しかし、人の匂いだけは蘇らせられない。
技術的な問題ではなく人の仕様、あり方のエラー。
人が人から感じる匂いはひたすら主観的で思い出に寄り掛かりすぎているから。
匂いはデータや検索履歴が書き起こせない、肉体と肉体が保存した淡い筆跡。
だから、彼女の匂いが欲しい。そしてぬくもりに触れたい。
ナノテクノロジーによって小型化したカーボン・ナノ・チューブのデバイスは携帯するにはあまりに小さく、インプラントが選択されたのはあけすけな利便性。
ひとと一体化したデバイスは記録した。GPSが間断なく足跡をロードムービーにし、網膜が切り取った画像は個人管理のエルミタージュを建てた。
頻繁に接近するデバイスを友人と認識し、心拍数の増加と体温の上昇を伴う接近には恋人のタグをつけた。
ひとが生まれてから死ぬまでの記録に必要な容量は5テラバイト。
21グラムの魂よりも軽いのかどうかは陳腐化してもうネタにもならない。
5テラバイトに記された人生。
それはいつでも再生可能なひとのログになった。
だからすべての死者が今夜もつぶやく。
思い出してと。
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