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私は忘れない。
もう指はうまく動かないけれど、長い髪は真っ白だけれど、焦げた匂いが強まるけれど、ときおり自分の名前を忘れるけれど、あなたのことは忘れない。
カーテンを引いた窓ガラスを砂粒が打った。荒い砂粒は傷だらけのガラスに更なるダメージを与える。
彼女のテキストの向こうで揺れる赤い光が煙っていく。
ずっと覚えてる。
あなたを忘れない。
網膜のディスプレイに映し出された彼女の白い腕。その手が握りしめているは私の手。
何十年もまえの私の欠片。
たどっていけば、彼女に見つめられて幸福そうに笑う私がいた。
少女の面影が残った私は目を細めて彼女を見つめ、いまの私に微笑みかける。
もう戻らないすべて。
災害アラームが機能しなくなったのは随分と前だ。ニュースサイトは世界の惨状を散発的に伝えてくるが、もう何週間も人と会っていない私にはフェイクかフィクションかも区別がつかない。ガレージチューブにアップされる動画は日を追うごとに少なくなっていく。だからといって不満を表明するユーザーもあまりいない。誰が見たいというのだろうか、町や山が燃えて、人がショットガンで頭を吹き飛ばし脳漿を壁に塗りたくる動画を。
だから私は彼女を再生する。
私を忘れないで。
耳のなかで彼女がささやく。
私はうなずきたいが、もう首もまともに動かない。
沈み込んだソファーから起き上がることも出来ずに私は彼女の物語を観る。
私を忘れないで、もっと愛して、ずっと想っていて。
忘れないよ、ずっと愛しているよ、あなただけを。でも、こんなに寂しいよ。
あなたの匂いとぬくもりが感じられないから。
とても寂しいよ。
あなたの物語は私が忘れない。じゃあ、私の物語は?
私のことを誰が思い出してくれるの?
誰が私を再生してくれるの?
クラウドに閉じ込められた私を誰が見つけてくれるの?
このログは天国には届くの?
誰か私を読んで!
忘れないで!
そのとき砂粒が窓ガラスを突き破った。
ガラスが床に突き刺さる。
彼女の物語のうしろで、くすんだ部屋の調度が壊れた。コップが飛んで写真立てを砕いた。黴だらけのパンはたちまち飛散し火の粉になった。
部屋が砂塵で埋められていく。
赤くなる。
熱くなる。
燃え上がる。
熱せられた砂は乾いた部屋に火を灯す。
絵の具を塗るように炎が調度をなめる。
背後から吹き荒れる砂塵を浴びた私の白髪は煙をあげる。
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