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私立東陵学園高校は県内外から生徒が集まる男子校だ。
普通科、特進科、スポーツ科があり、都心から離れた立地で広い敷地を誇っている。
トラックもあるグラウンド、サッカーグラウンド、野球場、テニスコートなどがあり、特進科やスポーツ科の生徒は遠方から来る者も少なくないため寮も併設されている。
スポーツ科で特に目立つのは体操部である。優秀な指導者が少数精鋭主義で指導していて、全国や世界レベルで活動してる選手もいる。その次に多いのが陸上、長距離だ。
東陵学園大学の駅伝部に有望な選手を送るため、ここだけではなく全国にいくつかある関連高や附属高から送り込まれる学生たちは、箱根で走る十名に選ばれようと、さらにしのぎを削る。
ほんの幼い頃、祖父の膝に乗ってテレビの前で見つめ、憧れていたあの場所。
――――駅伝に出たい。
それだけを考えて、ここまでやってきた。
大人びた子供だった泰史は大人受けが良かった。運動などは得意だったが活発というわけではなく、無邪気にはしゃぐことは少なかったけれど、めったに我が儘も言わない物わかりの良い子。だがたったひとつのことだけが、子供の表情を変えた。
毎年、正月に祖父や父の膝に抱かれながら見る箱根駅伝。
選手の様子や走りなどに好き勝手言うのを聞いていた。往路の放送が終わると父や叔父が外へ出て走りに行ったので、幼い泰史もついて回った。祖父も父も叔父も叔母も若い頃、陸上をやっていたのだ。祖母と母を置いてきぼりにして、陸上経験者たちで盛り上がる正月。
いまだに「あのときは目がキラキラ輝いていた」などと言われる。幼心に『走ることは特別カッコイイ』と擦り込まれていたのかもしれない。
小学校に入学した年の夏、家族で箱根へ行った。むろん温泉旅館に泊まりに行ったのだが、移動する車から見える沿道に、子供は興奮した。テレビで見たのと同じだとワクワクして車から降りる、走りると主張した。
けれど車の行き交う道を小学生が走れるわけもなかった。
そうか、ここで走るのは特別なことなんだ。
ならいつか、ぼくはここを走る。
そう心に決め、練習だと毎日山道を走りまくるようになった。
小学四年生、父や叔父が所属するアマチュアの陸上クラブへ行って、本格的に長距離を走ることを意識するようになる。
働きながら皆で金を出し合い、グラウンドや河川敷を走ったり飛んだりしている大人たちはみな真剣で、小学生の目には輝いて見えた。
頼み込んで練習に混ぜてもらうことに成功し、それ以降は父に連れられて練習に通っていたが、やがて父が多忙でもひとりで行くようになる。
そこで大人たちは様々教えてくれた。その中で、もっとも泰史の興味を惹いたのは、物理原則を応用して効率よく身体を動かすという考え方だった。
「ただ走れば良いのではない、頭を使え」
なるほどと納得し、泰史は考えながら走るようになった。
どうしたらこれができる。どんな練習が有効か。
探れば探るほど必要な知識を持たない自分を痛いほど感じ、学ぶことに夢中になる。人体の構造や効率的な身体の使い方、栄養学、解剖学、さまざまな本を手当たり次第に読みまくり、片っ端から学ぶ。走りながら、動きながら、自分の動きが効率的かどうか探る。理想の動きを実践するためには、それが可能な身体を作らねばならないと意識が変わった。
食事、睡眠、練習メニュー、考えることが多すぎた。父や叔父が常に相談に乗ってくれるわけも無く、自己完結するようになるまでさほど時間はかからなかった。いつしか口数は少なくなり、思索にふけりつつ黙々と練習を重ねるばかり。そんな子供は、小学校で浮きがちだった。
しかし成績は良かったし、スポーツも含めなにをやってもそつなくこなすので、教師も含め誰もが一目置く子供でもあった。
中学に進むと当たり前に陸上部へ入ったが、どうにもぬるいと感じた。小学生に毛の生えた子供が走ることにどれだけ真剣かと問えば、自腹切って休みに集まり練習していた大人たちの真剣さには遠く及ばないのは当たり前なのだが、それが理解できたのは後のことだ。
そのとき泰史はただ目標を見据えて、まっすぐに日々を過ごした。
食事にも気をつかった上で自主練も手を抜かず、親の手前勉強もきちんとやりつつ部活をこなし、参加可能なロードレースに出まくって感覚を養いつつ、規則正しい生活をキープする。
絶対に箱根を走る。
その為にできることはすべてやる。努力でも何でもない。
箱根を走るのは選ばれた者のみなのだ。ならば誰より優れたランナーにならなければならない。なにも考えずに人より優れた結果を残すなどできるはずが無い。ゆえに頭を使う。知識を蓄え、それを実践に活かす為に、試行錯誤する。
結果として中体連で良い成績を残せた。県で優勝、全国でも5位以内に入ることができたのだ。
そしてこの高校に入学し、寮生活を始めた。
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