3.犬

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 あれから交流合宿が終わるまで、安原はあのふやけた顔で、ノートとサインペンを持ってずっとつきまとっていた。  うるさいので存在にはすぐ気づくが、顔を見るとふやけた真っ赤な顔になる上、言語障害に陥るらしくナニ言いたいのか意味不明で、しかも声だけはデカいし響く。  なんとなくムカついたので「待て」「止まれ」の二言で放置した。  夜は二年の寝る部屋までやってきて、やはりうるさかったので「黙れ」と閉め出したら部屋の前の廊下で寝ていた。  ただの馬鹿だ。  それから一週間。  さすがに学校だと授業もあるし、こっちは寮だから夜まではつきまとえない。だが放課後や昼休みなど、教室までやって来るようになり、そこにいれば早速ふやけた赤い顔で、いないと分かると、ずっとあの調子で探し回りやがって、色紙とサインペンを持ち出す。  サインというのはマジだったらしい。  というか、いったいどれだけ欲しいんだ、と呆れているわけだが気は乗らない。  どうにもあのふやけた顔を見るとイラッとするのだ。  ゆえに放置してるのだが、うるさく追いすがることもある。そんなときは、これで抑える。 「待て」「止まれ」「黙れ」  まるでしつけの良い犬のように従うのだが 「去れ」  と言っても去らない。  尻尾振ったデカい犬がまとわりついてくるように、そこら辺に居続ける。威嚇すると隠れたフリするのだが、デカいので丸見えだ。  一度、面倒になって腹を殴ったのだが、意外にも腹筋がしっかりあり、かなり硬くて拳や腕を傷めそうだった。怪我などもってのほかである。殴るのは専門外なのだ。  ゆえに研究し尽くしている足の振りを利用して脛を蹴っている。  大袈裟に声を上げて痛がっているのを見ると、少しスッとするのでやめられない。  ただでさえ安原は声もガタイもデカく挙動不審なので目立つ。邪険に扱っているのも「痛い痛い」と騒いでるのも周知のことで、奥沢じゃないがみんな面白がって注目しているし、かなり噂にもなってるらしい。  普通ならいたたまれなくなって諦めるだろうと思うのだが、あの馬鹿にその兆候はいっさい見られない。 「かっ、がやっ、さぁ~~~んっ!!」  ……面白くない。  だけではない。安原の分際でトレーニングの邪魔をするなど言語道断、もう限界だ。  チッと舌打ちしたのは無意識。  そのままトラックから外れると、驚いたように「どうした」コーチが声をかけてきた。 「少し硬いとこ走ってきます」 「硬いとこって、おい加賀谷」  通常はアスファルト上を走ることを言う。柔らかいトラックでは得られないトレーニング効果がアスファルトを走ることで得られるのだ。  が、まっすぐ校舎へ向かったので、コーチが慌てるのも当然だった。軽く手を振るのみで校庭に面した出入り口から入る。  いきなり走ることをやめて立ち止まるのは、心肺機能的にも筋肉にも良くない。ゆえに速度を落としたジョギングで階段を駆け上がる。これなら速筋に効くだろうから、インターバル代わりだ。  二階の廊下に、窓からきょろきょろ見回してるデカい背中を見つけた。トラックから外れてどこに行ったか探しているのだろうが、馬鹿だ。  後ろを走り抜けざま、軽く足を引っかけてやる。ドタッと音がして「いてっ!」通る声が廊下に響いた。 「うぁっ! てかぁ、加賀谷さんっ!」  ジョギングでその場足踏みしつつチラッと目を向けてやる。 「おまえちょっと来い」 「えっ、マジですかっ!」  ぱああ、と音がしそうな程、歓喜に溢れた真っ赤な顔になる。 (面白い)  ちょっと満足しつつ、先に立って廊下を走ると、安原もドタドタと着いてきた。  ジョギングの速度で、泰史は校舎の階段を駆け上った。  屋上まで出たら、腿にはイイ感じで乳酸が溜まっている。 (よし)  これで速筋トレーニングにもなった。納得がいったので、おもむろにストレッチを始める。  身体を動かす前と後のストレッチは重要なのだ。まずは下半身。状態を確認しつつ、丁寧に筋肉を伸ばしていく。  ふと上履きの足が目に入る。  目を上げると、安原がワクワクした赤い顔で、胸に色紙を抱いて立っていた。  思いっきり見下ろされているが、今はストレッチ中だ、致し方ない。そう考えて目を落とし、声をかける。 「座って良し」 「あっ」  せめて視線を下げさせるべきだった。 「……はいっ」  チラッと見ると、安原はおとなしく体育座りで待っている。  こういうとき、こいつはしつけの良い犬だ。ずっとこうなら悪くはない。  そんな風に思うのは自分らしくないとは思う。だがおそらく、この犬の目に誤魔化しようのない憧憬が宿っているように思え、気分が悪くないからなのだろう。
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