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この日常が当たり前ではなくて特別なことなんだって、気づいた時にはもう遅かった。
私は幸せなことに、失って初めて知ることになるんだ。
「・・・先生」
放課後。誰もいない生徒指導室。となりの職員室からは、教師達の会話や、コピー機の音が聞こえてくる。その雑音にかき消されるかのように、声を押し殺して、私は先生と抱き合った。
いつからだろう。こんなにも自分を隠して、消して、固執してしまったのは。
私がこの高校に入学した理由。それは学力が等しかったわけでも、家から近かったわけでもない。『好きな人がいるから』という不純な理由だ。
ー・・・5年前、中学二年生の夏。
プールで熱中症になり、倒れた私を保健室まで運んでくれたのは、教育実習の先生だった。
「さっきは、ありがとうございました」
目が覚めるまでずっとベッドの隣についてくれていた先生へお礼を言った。
「いいよ。どうせヒマだし。まあ、ちょっと運ぶ時どこ触ればいいのか戸惑いはしたけど・・・」
ハハッとウブな反応。大学生とは思えないくらい、真っ直ぐで綺麗な瞳だった。
「・・・先生ってカノジョいないんですか?」
ただ単に女性経験のなさそうな先生をからかおうとしただけなのだが、何を勘違いしたのか少し間を空けて口を開いた。
「子供はそんなこと知らなくていいから」
答えになってない答え。ポンポンっと私の頭を叩いて背を向けた。
「こっ、子供扱いしないで下さい!」
「じゃあもう無理すんなよ、お大事に」
振り返ることなく、そう言った背中を私はただずっと見つめていた。
それから、あの先生のことが頭から離れなかった。
あの日が最後の実習日で、元々私の学年と関係のなかった先生のことを知っている友達はいなかった。学校の先生に聞けばすぐに分かるのだが、なんだかその気にもなれず、習い事も部活も勉強も何も手につかなく、ぐるぐると同じような日々を過ごして気付いたら一年が過ぎていた。
周りは受験だの進学など騒ぎ出す秋になっても、私は何一つ決めていなかった。
ただひたすらに、あの夏の日のことしか考えていなかった。
もう名前も顔すらも忘れてしまった。覚えているのはあの先生に向かないはっきりしない滑舌と茶色いスーツを着た背中だけ。
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