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7
飛び乗った電車は終電の一本前だった。これでは帰りはタクシーになりそうだ。まだ自動車に乗るのは抵抗があるのだが、それも仕方ないだろう。自分で運転するのでなければ、とりあえずは大丈夫。事故のときの記憶はないのに、恐怖心だけは残っているというのも奇妙なものだと思うが。
そうして池袋で降りると、昼間に増して賑わっている地下街を抜けて西口に出た。駅前は多くの店がすでにシャッターを下ろしていたが、それでもまだ十分に明るかった。
おそらくは大学生だろうと思われる集団が道の真ん中でオダを上げ、カップルがそこかしこで身を寄せ合っている。それを縫うように進んで行くと、やけに苛立った足取りの女性とぶつかりそうになって思い切り睨まれた。見るからに水商売といった露出の多い出で立ちからして、ひと晩お茶を引いたか嫌な客に当たったかしたのだろう。僕は怒る気にもなれず、小声で「お疲れさま」とつぶやいて通り過ぎた。
人いきれを避けて線路沿いの道に出ると、途端に賑わいが途切れて静かになった。見上げると焼却場の煙突の真上に、三分の一ほど欠けた月が浮かんでいる。不意に寒さを覚えて、僕はブルゾンの襟を立てて身を縮こまらせた。そうして足を早めて、目的地であるホテル街へと向かう。果たして本当にそこで、『彼女』が待っているのか半信半疑ではあったが。 しかしその途中で、ふと短いクラクションを聞いた。振り返ると、闇に溶け込むような黒のプリウスが静かに近付いてきていた。ナンバーからしてレンタカーのようだった。
プリウスは徐々にスピードを落とし、足を止めた僕のすぐ脇で停まった。後部座席のウィンドウがゆっくりと開き、顔を出したのは予想通りの顔だった。左目の下に小さな黒子。国塚あおいのミロワールだった。
「来たわね」
それだけ言って、彼女は奥へと下がって行った。僕が乗り込めるように、場所を空けてくれたのだろう。
車のドアに手をかけて、すぐに離した。脳裏に一瞬だけ、フラッシュバックのように映像が蘇る。雨の中に放置された、無残に潰れてスクラップ同然になった軽自動車。続いて、看護師たちが慌ただしく駆け回る救急病棟の廊下を運ばれてゆくストレッチャー。耳障りな電子音を立てる機器に囲まれたベッド。
あれ、と思った。今の記憶は何だ。僕の記憶のはずはない。だって僕はあの事故でたいした怪我は負っていないのだから。もちろん奇跡的に、ではあるけれど。
「何をしてるの。早く乗りなさい」
彼女が急かすように言った。その声に背中を押されて、僕は再びドアに触れる。今度は奇妙なイメージに邪魔されることなくドアを開くことができた。そのまま空いたスペースにお尻を滑り込ませる。やってみれば何てことはない。
ドアが閉まると同時に、車は再びゆっくりと走り出した。前に目をやると、ハンドルを握っているのは昼間の若い男だった。相変わらず売れないホストのような風体で、プリウスの運転席にはどうにもミスマッチに思えた。
「どこへ連れて行かれるんだろう」
僕が尋ねると、彼女はそっぽを向いたまま「すぐそこよ」と答える。説明はそれだけだった。車は静まった線路沿いを相変わらずゆっくりと下り、そのままホテル街へと入って行った。
平日とあって、どのホテルにも空室ありのランプが灯っていた。そうして細い路地を縫うように進んだ末に、三台ほどがようやく駐められる程度の小さな駐車場へと車を入れた。運転手の男は「じゃあ」とだけ彼女に声をかけ、車外へと出て行った。
「僕たちは降りなくていいのかい?」
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