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話しているのは、どうやら一方的に男のほうだけのようだった。かといって、険悪な様子はない。むしろもうひとり、まず間違いなく連れの女性に対して、あれこれと気を遣って機嫌を取っているような気配だ。声は落ち着いていて、それなりの年齢と思われた。
ふたりは車に乗り込んだようで、ドアの閉まる音とともに声は聞こえなくなった。結局言葉が聞き取れなかったことに苛立ちを覚えて、僕は一歩身を乗り出す。咳き込むような起動音に続いて、エンジンが回り出した。そのとき、不意に背中に衝撃を受けた。
「えいっ」
やや前屈みになったところを、背中を蹴られたらしい。そう理解したのは、大きく数歩よろけて両手をついたあとだった。次の瞬間、僕は眩いヘッドライトに包まれていた。タイヤを鳴らして、発進したばかりの大型車が目の前で停まった。
運転席から、男が降りてきた。声から類推していた通り、四十前後と見える中年男だった。それでも着ているスーツは仕立てが良さそうで、百八十はありそうな長身に似合っている。顔立ちも整っていて、まあ女性にはもてるんだろうなと思える容貌だ。しかしどことなく性格の悪さが滲み出た、つまりはいんちき臭いイケメンといった風情で、僕としてはあまりお近付きにはなりたくないタイプだった。
「何をしてるんだ、あんた!」
つかつかと革靴を鳴らしながら、男が歩み寄ってくる。僕はまだ動転したまま、その大柄な体躯を呆然と見上げるしかできなかった。
「あ、いや、すみません。僕は大丈夫ですので」
「こんなところで何をしてたって訊いてる!」
どうやら危うく轢きそうになったから怒っているというわけではなさそうだった。僕はますます混乱し、立ち上がろうとしてもまたよろける。
男はそんな僕の胸ぐらを掴んで、無理やりに体を起こさせた。十センチ近い身長差があるので、ほとんど爪先立ちになってしまう。
「どうもすみませんでした。すぐに退きますので……」
そう言いかけたところに、今度は女性の声がした。半分息を飲んだようなかすれ声で。
「……波留さん?」
男の肩越しに、声のしたほうを窺った。助手席から降りてきた女性には、確かに見覚えがあった。というか、つい今の今まで一緒にいた相手と同じ顔。いつも何かに驚いてるみたいに大きな瞳が、本当に見開かれて揺れている。
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