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国塚あおいだった。僕も「え……」と絶句して、今来たほうへと目を走らせた。しかしそこにいたはずの『もうひとりの彼女』の姿は、いつの間にか消えていた。その代わり、道の向こうに動く光が見えた。プリウスのテールランプだった。それも見えたのはほんの一瞬で、すぐに曲がり角の向こうへと消えていった。
「こんなところで何をしてるんですか、波留さん」
あおいが男と同じことを尋ねてきた。もうひとりのあなたに、わけもわからず連れて来られた。そう素直に答えていいものやら、迷っているうちに問いが重ねられる。
「まさか、わたしのことを監視していたんですか」
「あ、いや、そういうわけじゃ……」
「こいつのことを知ってるのか、国塚くん。いったい誰だ?」
男が顔だけをうしろに振り向けて尋ねる。彼女は唇を噛むように引き結ぶと、何かを恥じるみたいに顔を伏せた。
「わたしが、その……調べたいことがあって、お願いしていた人です」
「調べたいこと……じゃあ、探偵ってことか?」驚愕、狼狽。声に滲みかけたそれを、すぐに憤怒が塗り潰す。「まさか君……いや、涼子が?」
「……でも!」振り絞るような声で、彼女が叫んだ。これまで接してきた彼女が見せたことがなかったような、鋭く尖ったような声。「……こんなことをしてほしいなんて、わたしは頼んでいません」
そう言われてしまったら、僕はもう何も言えなかった。確かに彼女のこんなところを暴くつもりはなかったが、もうひとりの彼女が言った『本当の姿』というものを知りたいと思ったことは事実なのだ。それは果たして、僕が頼まれたことの範囲に入ることだったのか。
「ですから、もう結構です。お願いした調査も止めていただけますか」
震える声であおいは続けた。それが依頼人の意志であれば仕方ないだろう。僕の社会復帰の第一歩は、こうして無惨な失敗のうちに終わったというわけだ。
「了解しました」と、僕はようやく答えた。
「では、行ってください。もう顔も見たくありません」
彼女は吐き捨てるように言うと、逃げるように再び助手席へと乗り込んだ。最後に一瞬だけ、なおも揺れている眼差しをちらりと僕に向けて。男は胸ぐらから手を離すと、力任せに思い切り僕を突き飛ばした。そうしてもんどりうって倒れた僕を見下ろし、地面に唾を吐く。
「戻って涼子に伝えろ。こんなことをいくらしたって無駄だってな」
それだけ言って、男は背中を向けた。涼子さんというのが誰なのかは知らないが、そんなことを僕に言ってもそれこそ無駄なのだけど。
そうして車は尻もちをついたままの僕を置き去りに、夜の闇の中へと消えていった。
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