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声に出してつぶやくと、すぐ隣を僕と同じくらいの歳と思われる女性が怪訝そうな顔で通り過ぎていった。少し落ち着きを取り戻すと、僕はゆっくりと街に向かって歩き出す。このまま地下鉄の出口で呆けたように立ち尽くしているわけにもいかない。
今日も空はよく晴れ上がっていて、まだ四月とは思えない強い日差しが降り注いでいる。引き篭もりから復帰したばかりの身にはいささか厳しい陽気だった。僕はその日差しから逃げるように、足早に歩を進める。
時刻はすでに昼近くになっており、早めの昼食を採りに出てきた人で歩道は賑わっていた。そうしてまたTADビルのエントランスを望める店を選んで、窓際の席に陣取った。今日からは彼女に見つかってはいけないので、慎重に顔を隠しながら。
席について、運ばれてきた冷たい水で喉を潤すと、そこでようやく大きなため息をついた。さっきのことはさすがにショックだった。確かにここのところ頻繁に記憶が飛ぶのを経験していたが、こんな、いきなり違う場所で我に返るようなことははじめてだった。いったいいつから記憶がないのか、覚えているもっとも最近の行動は何だったか、それも曖昧だ。目を覚ましてリビングでコーヒーを飲んで、昨夜の失態を思い返して自己嫌悪。それから今後の方針について思案を巡らせて、調査を続けることにしたのは覚えている。それから……それから。僕はどうしたんだっけ。
もしかしたら、頑張って思い出さなきゃいけないようなことは何もなかったのかもしれない。朝決めたように、昨日までと同じように、また江戸川橋へとやって来ただけ。ほとんどルーティンになりつつある行動だから、記憶に残らなかっただけということだって考えられる。それならば過ぎたことに頭を悩ませるよりも、これからやると決めたことに思考を集中させるべきなのだろうか。
しかし……と、また堂々巡りに陥りそうになったところへ、ビルから出てくるあおいの姿が目に入った。昼食にしてはやや早い。おそらく外での打ち合わせにでも向かうのだろう。
さすがに昨日のことがあったためか、心なしか表情も沈んで見える。やや背中を丸めて俯き加減に、足元から数メートル先の地面を見つめながら歩いてゆく。
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