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その姿が交差点の向こうに消えるのを確認すると、僕は完全に頭を切り替えて、行動を開始した。店を出るとちょうど信号が点滅しはじめた横断歩道を駆け足で渡り、ビルのエントランスへと向かう。そうして自動ドアから出てきたふたり組の女性に声をかけた。
「失礼ですが、こちらの会社のかたですか?」
ふたりは足を止めて僕を見た。しかし一瞬驚いてはいても、その目に警戒の色は浮かんでいなかった。今ばかりは、いかにも人畜無害な優男風に産んでくれた両親に感謝だ。
「突然申し訳ありません。お尋ねしたいことがあるのですが、ちょっとよろしいでしょうか」
そうしてしばしの躊躇いののち、ふたりのうち小柄なショートカットの女性が一歩前に進み出てきた。「どういったことでしょう?」
「はい。実は数日前、このエントランスから急いで出てこられたかたとぶつかってしまい、お持ちになっていたタブレットを落として壊してしまったのです。そのかたは急いでいるから構わないとおっしゃってくださったのですが、どうしてもお詫びをしたいと思いまして、こうして伺った次第なのですが」
自分でも驚くほどすらすらと嘘が口から出てきた。ふたりは僕の話を疑う様子もなく、真剣な顔で小さく頷きながら聞いてくれていた。
「歳は四十くらいだったでしょうか。背が高くて筋肉質で、よく日に焼けたかたでした。仕立てのよいダブルのスーツを着ていらっしゃったので、もしかしたら役職に就いておられるかたなのかもしれません」
そう風貌を説明しても、ふたりにはなかなか心当たりがないようだった。ビルの規模からして、部署も多いのだろう。
「すみません。それだけではちょっとわからないかも……」
ふたりはそう言って、済まなそうに去って行った。もちろん僕もいきなり当たり籤を引くとは思っていない。落胆することなく、次のターゲットを探す。
そうして同じ質問を繰り返すこと四人目で、ようやく行き当たった。
「それって……もしかして、橋場さんじゃないかしら」
秘書課勤務だという三十代半ばくらいの女性は、やや自信なさげに小首を傾げながら答えた。
「同期の中でもいちばんの出世頭で、優秀な人ですよ。ですが今日は午後から支部で会議があるので、もうお出かけになりましたが」
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