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「天パかけた?」とおちょくられるのが常な友人が、町外れの美容院を薦めてくれた。
「俺も行ったことないけどな」
「ないのかよ」
床には大量の毛髪が落ちている。層を成している。繁盛はうかがえるが薄汚い。
手すりは皮革で、湿っている。鏡は曇っている。
長いこと待たされている。
ひょっとすると、ほんの四、五分しか過ぎていないのかもしれない。三十八度の熱のせいで時空がおぼろになっている。
ソファに掛けて、ウサギの銅像の目の空洞を、ぼんやり眺めていた。
いつのまにか音も匂いもなく隣に参じていた老婆が、ハサミを持った。ようだ。目を凝らしてやっとわかる。
まぶたを閉じると、不快な眠気に襲われた。
まどろみの沼に沈みかけるたび、身を任せようと決心するが、ひらめく冴えにどうしてもぶつかる。仕方がないから老婆を見ていた。
手さばきまではっきり見える。だがどうも、髪が減っている感覚がない。ハサミは動き、音もしているが、空を切っている気がする。熱のせいか。
こりゃぼったくりだ、と思い、もう結構ですといって立ち上がった。
そこですってんと転んでしまった。頬をしたたかに床に擦りつけた。
他人の毛髪がまとわりつく。
貼りついたそれを頬から剥がすとき、一本ずつが微妙に長いのに気が付いた。男の髪にしては長い。すべてが長い。
しかもすべてに毛根が付いている。
し か も す べ て に 毛 根 が 付 い て い る。
老婆が背後にいるのがわかる。泣きそうになった。散髪はこれからみたいだ。友人を恨む。
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