えんむすびのある日常

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えんむすびのある日常

 夕焼け色が川面を染める。今の時間帯の空腹に、この匂いは辛いほど沁みる。  辿らずとも近所の人なら知っている、景に溶けた電灯の、オレンジが照らすほつれた暖簾。「えんむすび」と書かれたその隙間から、天へ昇る炭火の煙が薫りだかい。  ヨークシャーテリアも通り過ぎざま、鼻をフンフン、足をフラフラ。飼い主が思い切りリードを引けば、その腕に引っ掛けたスーパーの袋も揺れて、鳴いて、葱が飛び出す。  そろそろ夕飯時、この辺りにも中心部へ勤めている人が戻り始める頃だ。帰りの電車一番乗りの第一陣が、駅からこの川沿いの通りへと列をなしてやって来る。見慣れた橙の揺らめきには目もくれず、そのほとんどが家路を急いだ。夕日を受ける横顔はどれも、一日を終え程良い疲労をたたえ、晩酌への期待を膨らませて。  中でも、先陣を切ってピンヒールを掻き鳴らすこの人は、まだまだ元気を残している。これからが今日のはじまりだとでも言わんばかりに。 「おっつー!」  バシュッと勢い良く暖簾を払い上げると、必要最小限に背を落としてくぐる。起き上がらないうちからストールを引き、派手な色のコートから腕を抜くと、ウェーブがかった茶色の長い髪を、ふわり。ノンストップでレジ内側のクロークへ、慣れた手つきだ。 「お疲れ、暁奈ちゃん。ひとり?」  炭火を起こし終わり、客もいないのに鳥もも串を焼いていた店主は、笑みを見せつつ冷蔵庫からはつを三本取り出した。 「いや、電車が一緒になったみたいでさ…あれ?」  暁奈と呼ばれた彼女はきょとんとする。自分のすぐ後について来ていると思ったが、奥へと歩きながら暖簾のほうを振り返っても、誰もいない。 「おっかしーなー?」  と言いつつも一度も立ち止まることはなく、バックヤード手前の冷蔵庫から作り置きの小鉢を二つ、手に取る。甲高いピンヒールの音は、最奥の四人がけの席で止まった。  その様子を横顔で感じながら、店主ははつを網の上に乗せると、再び冷蔵庫へ向かう。
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