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「ああ、さや果」
調理場から兼行に呼ばれた彼女が、留めた髪を揺らすその横顔を、彼はずっと見つめている。
「その子はここの子だから。お帰り杏平くん」
今度は髪を跳ねさせて、彼女はくるんっと向き直る。
「あ!あなたが『きょうへい』くんでしたか、すみません」
「…!」
唐突にファーストネーム。そんな風に呼ばれたら、杏平はなんだか頭まで湯に浸かった心地になる。どうしようもなく引き寄せられ、徐々に頭が前へと傾いで、道を開けるためどうぞと横へよけるさや果を、追いかけるように慌てて暖簾をくぐり抜け。
――そして今、距離を保った笑顔の彼女。
ここで、杏平はやっと、自分が目を奪われていたことに気付く。
「おかえりなさい…?」
言っても良いものか、どうしようか、迷いもありつつ遠慮を含んだ迎えの台詞。それが感じたことのない高揚を、身体中に連れて来て。
「たっ!ただいま!」
店中に、その声は爆発的に響くこととなる。
「…」
あまりに大きな返事だったから、さや果は目を丸くして見つめ返す。そこに、多少の呆れを含む視線も奥から加わる。
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